巨大新聞社長の不倫相手は、かつて取材相手との“略奪愛”で週刊誌ダネになった女性
深井は身長160cmそこそこだったが、美舞も身長150cm足らず。身の丈は中年のカップルとしては町の中に溶け込む条件を整えていたが、贅肉が少し目立つ程度の深井に対し、美舞は小太りを通り越して、ビール樽がよたよた歩いている感じだった。
「舞ちゃん、食事制限でもしているのかい?」
「そんなこともないけど、これ以上太っちゃうと足に負担がかかるの」
「無理やり食べさせるようなことはしないから、安心していいさ」
「待って。お店ここよ」
美舞は、話に夢中になって通り過ぎようとする深井の袖を引いた。ふたりは蕎麦屋に入ると、一番奥の4人席に向かい合って座った。店のおばさんがおしぼりをもってやってきた。
「このところ、ご無沙汰じゃないの。いつもの“寄り道セット”でいい?」
「今日はこの人のおごりだから、“寄り道セット”じゃないわよ」
美舞はうれしそうに首を振り、奥に座った深井を指した。
「最初はビールでいいでしょ。あまり食べないけど、おつまみは深井さんが頼んでよ」
「じゃあね、まずビールを2本。おつまみはビールを持ってきてくれたときに注文する」
そう言うと、深井は改めて店内を見回した。時間が早いせいもあって、客は深井たちを含め3組だけで、8割ほどの席が空いていた。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっとね」
「あ、わかった。日亜関係の人がいないか、見たんでしょ。心配いらないわよ。常連の私でも、ここで見かけたこと一度もないから。来ることがあったとしても、もっと遅い時間じゃないかしら?」
日亜オフィスビルには日亜の関係会社が入居している。深井が多少気にしたことは事実だが、どう話を切り出したらいいか、考えているのをカモフラージュしようしただけだ。
「いや、気にしていないよ。それよりさ、吉須さんが酒癖悪いって、どういうこと?」
「あ、その話? それは一杯飲んでから」
美舞は笑顔のまま、いたずらっぽい目つきで深井を睨んだ。その時、おばさんがビール2本と付き出しを運んできた。テーブルに並べている間に、深井は品書きを見て、つまみを4品注文した。そして美舞を促してグラスにビールを注ぎ、ふたりとも一気に飲み干した。
「ああ…うまいね、一杯目のビールは。後は手酌でいくよ、いいね。それで、吉須さんのこと話してよ」
「…あの人が世界一周旅行に出る前に飲んだんだけど、その時なんて言ったと思う?」
「舞ちゃん、わかんないよ」
「あの人ね、『君、処女か』って聞いたの」
深井は吹き出した。
「『君、処女か』ね。吉須さん、いいこと聞くね。俺も聞いてみたいよ」
「なによ、深井さんまで。それセクハラだわ。私と“したい”なら別だけど…」
「そうか。したければいいのか」
「馬鹿なこと言わないで。それより“面白い話”って何よ」
「うん。そう急かすなよ。まあ飲んで」
深井がビール瓶を取り、美舞のグラスに注いだとき、おばさんがつまみを運んできた。
「舞ちゃん、まだビールでいいのかい? 熱燗も貰おうか」
美舞が頷くのをみて、厚揚げや板わさなどのつまみを置いているおばさんに注文した。
「ビール2本と、二合徳利1本、お願いね」
おばさんが席を離れると、深井はつまみの皿に箸を出し、自分の取り皿に取った。厚揚げを口に運び、ビールを飲んだ。そして、じれったそうな目で見ている美舞に気付いた。
●社長の不倫現場を美舞に報告
深井は苦笑いして話し始めた。
「うちの社長の松野(弥介)って知っているだろ。彼の不倫相手と噂されている女性社員と出くわしたんだ」
「どこで?」
「あるホテルのバーだよ」
「なんでわかったの」
「いや、顔を知っているわけじゃないから、『多分』というところなんだけどね」
「なんだ。もったいつけることないじゃないの。でも、あなた大都出身でしょ。同じ会社なのにどうして顔を知らないの? 日亜出身の吉須さんが知らないならわかるけど…」
「まだ40歳代の女性だよ。元は記者出身だけど、今は社長室職員だしね。それに、俺ももう長いこと大都本社に寄りつかないから…」
「でも、名前はわかっているんでしょ」
「そりゃ、わかっているさ。花井香也子っていう女だ。ずいぶん前だけど、取材相手だった妻子持ちの大手金融機関の為替ディーラーとできちゃって、週刊誌に〝略奪愛〟なんて書かれたことがあるんだ。覚えていない?」
「…あったわね。でも、名前は知らない」
「そりゃそうさ。名前は出ていないからな」
「でも、変じゃない? その妻子持ちとできたんでしょ。どうして松野社長の相手なの?」
「うん、その為替ディーラ―とは3年くらいで別れちゃって、今は独身なんだ」
「へえ、そうなの。私、松野社長が定宿にしているホテルがあるって話は聞いたことあるけど、そこで不倫相手と会っているのね」
「かなり可能性は高いけど、それはまだわからない。でも、業界のゴシップ通の舞ちゃんなら知っているかと思ったんだよ」
(文=大塚将司/作家・経済評論家)
【ご参考:第1部のあらすじ】業界第1位の大都新聞社は、ネット化を推進したことがあだとなり、紙媒体の発行部数が激減し、部数トップの座から滑り落ちかねない状況に陥った。そこで同社社長の松野弥介は、日頃から何かと世話をしている業界第3位の日亜新聞社社長・村尾倫郎に合併を持ちかけ、基本合意した。二人は両社の取締役編集局長、北川常夫(大都)、小山成雄(日亜)に詳細を詰めさせ、発表する段取りを決めた。1年後には断トツの部数トップの巨大新聞社が誕生するのは間違いないところになったわけだが、唯一の気がかり材料は“業界のドン”、太郎丸嘉一が君臨する業界第2位の国民新聞社の反撃だった。合併を目論む大都、日亜両社はジャーナリズムとは無縁な、堕落しきった連中が経営も編集も牛耳っており、御多分に洩れず、松野、村尾、北川、小山の4人ともスキャンダルを抱え、脛に傷持つ身だった。その秘密に一抹の不安があった。
※本文はフィクションです。実在する人物名、社名とは一切関係ありません。
※次回は、来週10月4日(金)掲載予定です。