宇多田ヒカルさんが9年近く精神分析を受け続けていると語ったことに関する記事が「女性自身」(6月21日号/光文社)に掲載され、その中で小笠原晋也氏が精神分析について解説しており、なつかしい気持ちになった。だが、同時に一抹の不安も覚えずにはいられなかった。
小笠原氏はラカン派の精神分析家である。精神分析にはさまざまな学派があり、ラカン派では、フランスの精神分析家で、パリ・フロイト派を創設したジャック・ラカンの精神分析理論を研究し、その技法に則って精神分析療法を行う。
留学の時期はずれているが、小笠原氏も、私と同様にパリ第八大学でラカン派の精神分析を学び、ラカンの娘婿で後継者でもあるジャック・アラン・ミレールのセミネールに出席していた。また、小笠原氏は京都や大阪の病院に勤務していた時期があり、共通の知人が何人もいた。それほど親しいわけではなかったが、学会や研究会などで顔を合わせると挨拶を交わす程度の関係ではあった。
小笠原氏は、ラカンに関する書籍や論文を積極的に発表していた。最初の妻を結腸ガンで失ったが、死別の4カ月後には再婚し、翌年には息子が誕生。東京で開業し、精力的に活動しているように見えた。
だが、2002年12月、衝撃的なニュースが流れた。同年12月20付けの朝日新聞朝刊の記事を引用しよう。
<殺人の疑いで精神科医逮捕
板橋区常磐台3丁目の精神科医師小笠原晋也容疑者(46)方で7日、病院事務員Nさん(28)が死亡しているのが見つかった事件で、板橋署は19日、小笠原容疑者を殺人の疑いで逮捕した。事件直後に首をつって重体となっていたが、容体が回復したため逮捕した。
調べでは、小笠原容疑者は7日午前9時ごろ、交際していたNさんから別れ話を持ち出されてかっとなり、首を絞めて殺害した疑い>(筆者注:元の記事では、「Nさん」は本名)
この事件で殺害されたNさんは、私が聞いていた再婚相手とは違っていたようだった。そこで、小笠原氏と親交があった精神科医に尋ねたところ、再婚相手とは約10年間連れ添ったが、離婚したということだった。小笠原氏は子ども2人、再婚相手は子ども1人を連れての再婚だったため、夫婦仲がギクシャクしてうまくいかなかったのかもしれない。
再婚相手との離婚調停中に出会ったのが、Nさんである。この女性は、事件前年の2001年9月、小笠原氏のクリニックを患者として訪れ、うつ病と診断されている。その年の暮れ、2人は医師と患者の関係から男女の関係になり、同棲も開始。Nさんは、クリニックで小笠原氏の手伝いまでするようになった。そして、同棲を始めて2カ月後に小笠原氏の離婚調停が成立(『殺戮者は二度わらう―放たれし業、跳梁跋扈の9事件』)。
こうした経緯を振り返ると、小笠原氏の最初の奥様が健在だったら、殺人事件を起こすこともなかっただろうとつくづく思う。ラカン派には京都大学と名古屋大学の関係者が多く、小笠原氏も名古屋大学出身なのだが、名古屋大学の関係者に聞くと、末期ガンの妻を小笠原氏は実に献身的に看病していて、自宅で看取ったという。
愛する妻を病で亡くし、二度目の妻とはギクシャクして、離婚調停中に出会ったのが18歳年下のNさんだった。Nさんも、愛する人を病で失ったと語っていたこともあって、小笠原氏は惹きつけられたのかもしれない。もっとも、Nさんが愛する人を病で失ったという話は嘘だったことが、後に判明している。
「転移性恋愛」の危険性
このように同情すべき点はいくつもあるものの、自分のクリニックを患者として訪れた患者と男女の関係になるのはいかがなものかと私は思う。というのも、患者が、自分を治療している医師に恋愛感情を抱くことはときどきあり、それをフロイトは「転移性恋愛」と名づけ、その危険性を指摘しているからだ。
フロイトによれば、「(転移性恋愛は)非常に複雑な、多方面から条件づけられ、それを回避することは難しく、また容易に解決しがたい」という。そのうえで、「(転移性恋愛に)応ずるということは断乎として控えなければならない」と戒めている(「転移性恋愛について」)。
ラカンは「フロイトに還れ」と主張した。だから、「転移性恋愛」について勉強家の小笠原氏が知らなかったとは考えにくい。にもかかわらず、「転移性恋愛」ではないかと疑いたくなるような関係に陥り、交際・同棲の末に殺害したのだから、この問題は実に難しいと痛感する。
小笠原氏は現在、自ら主宰するクリニックで精神分析療法を実践しているようだ。当然、女性患者が訪れることもあるだろうが、「転移性恋愛」の危険性を認識して、2度と同じ過ちを犯さないようにしていただきたい。
もちろん、犯行後は後悔も反省もしただろうし、服役中に罪を償いながら自己分析もしただろうと思う。だが、小笠原氏自身が「女性自身」の記事で語ったように、精神分析では無意識の領域を扱い、その場で頭に浮かんできたことを何でも話してもらう「自由連想」の技法を用いるので、心の深い部分に入っていきやすい。それによって苦悩の核心に迫ることができるが、同時にトラウマを掘り起こしたり、「転移性恋愛」を引き起こしたりする恐れもある。
どんな薬にも、どんな治療方法にも副作用があるのと同様に、精神分析にも副作用はある。そのことを忘れてはならない。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
「新潮45」編集部『殺戮者は二度わらう―放たれし業、跳梁跋扈の9事件』新潮文庫、2004年
ジークムント・フロイト「転移性恋愛について」(小此木啓吾訳『フロイト著作集第九巻』人文書院、1983年)