ロシアのプーチン大統領は9月21日、国民向けのテレビ演説を行い、ウクライナで戦闘を継続すべく部分的な動員令に署名したと明らかにした。これは、戦地に派遣するために、職業軍人だけでなく、有事に招集される、いわゆる予備役も部分的に動員する大統領令である。また、ウクライナ東部と南部の占領地域の親ロシア派武装勢力幹部らがロシアへの編入の是非を問う住民投票を実施すると発表したことについて「決定を支持する」と述べた。
驚くことに、この演説でプーチン氏は「欧米側は、核兵器でわれわれを脅迫している。ロシアの領土保全に対する脅威が生じた場合、国家と国民を守るために、あらゆる手段を行使する」と語り、核戦力の使用も辞さない構えを示した。おまけに、「これはブラフ(はったり)ではない」と付け加えた。
プーチン氏がこの演説を行った背景には、ウクライナ軍が反転攻勢を強めており、東部でかなり広範囲の領土を奪還したことがあると考えられる。当然、プーチン氏は危機感を強めているはずだが、そんなことはおくびにも出さず、「一歩も引かない」という強い意志を示した。まあ、これまでプーチン氏は自ら引いたことが一度もないのだから、こういう反応をすることは予想の範囲内だった。
しかも、「これはブラフ(はったり)ではない」と凄んだのは、欧米諸国も自身の演説に耳をそばだてることを想定したうえでのプーチン氏の脅迫にほかならない。一応スーツにネクタイ姿だったが、ヤクザ映画に出てくる○○組の組長がテーブルにドスを突き立てて脅しているような印象さえ受けた。
「こいつ堅気じゃないな」と思わせる迫力で、欧米の民主主義国には、これだけ凄んで見せられる首脳はいない。日本の首相では到底太刀打ちできないだろう。さすが元KGBで、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた独裁者だけのことはあると妙に感心した。
脅迫によって欧米諸国の要心を目覚めさせることになっても、どうでもいい
脅迫について、ルネサンス期のイタリアの政治思想家、マキアヴェッリは次のように戒めている。
「ある人物が、賢明で思慮に富む人物であることを実証する材料の一つは、たとえ言葉だけであっても他者を脅迫したり侮辱したりしないことであると言ってよい。なぜならこの二つの行為とも、相手に害を与えるのに何の役にも立たないからである。脅迫は、相手の要心を目覚めさせるだけだし、侮辱はこれまで以上の敵意をかき立たせるだけである。その結果、相手はそれまでは考えもしなかった強い執念をもって、あなたを破滅させようと決意するにちがいない」
この戒めをプーチン氏が知っているかどうか、わからない。たとえ知っていたとしても、ウクライナさらには欧米諸国がこれまで以上に要心しようが、敵意を募らせようが、どうでもいいと思っているのではないか。プーチン氏は、とにかく自分が仕掛けた戦いに勝ち、強大なロシアを取り戻すことしか考えていないように見える。
こうした思考回路に陥るのは、この連載で以前指摘したようにプーチン氏がナルシシストだからである。ナルシシストが何よりも恐れるのは、自己愛が傷つくことだ。だから、せっかく占領したウクライナ東部の領土の広大な部分をウクライナ軍に奪還され、ロシア軍が東部での戦線の重要拠点からの撤退を余儀なくされたことは、プーチン氏にとって何よりも耐えがたかったはずだ。
この傷ついた自己愛を修復すべく、兵力不足を補うために、予備役まで動員する決断をしたと考えられる。しかし、プーチン氏の決断が合理的かどうか、はなはだ疑問である。プーチン氏が部分的な動員令に署名したとの発表を受け、ロシア発の航空便に予約が殺到し、週内の便はほぼ満席になっているという。
おそらくロシアから逃げ出したい人が多いのだろう。そういう願望を抱くのは、この動員令の対象者だけではないはずだ。これから統制や締めつけがさらに厳しくなり、物資不足も深刻になると思えば、逃げるが勝ちと考えるのは当然だ。
ナルシシストの独裁者にはとてもつきあっていられないというのが、逃げ出そうとするロシア人の本音ではないか。とくに「補正要素」が欠けた悪性のナルシシズムの持ち主は、「偉大さを維持するために、どんどん現実から自分を分離していく」(『悪について』)が、プーチン氏はその典型のように見える。
当然、これからも客観性と合理的判断が欠如した決断を繰り返し、さらなるロシア国民の離反を招く可能性が高い。もっとも、プーチン氏は国民と側近を恐怖で支配しているので、表立ってプーチン氏を批判する動きはそれほど盛り上がらず、嫌気がさしたロシア人が国外に脱出するだけかもしれない。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
塩野七生『マキアヴェッリ語録』新潮文庫、1992年
エーリッヒ・フロム『悪について』渡会圭子訳、ちくま学芸文庫、2018年