ロシアがウクライナに軍事侵攻した。侵攻が開始された2月24日、民間人を含めウクライナ人137人が死亡したという。蛮行といっても過言ではない。この侵攻を決断したプーチン大統領はいかなる精神状態にあるのか。そして、ここまで暴走したのは一体なぜなのか、精神科医の視点から分析したい。
私が見るところ、プーチン大統領には次の3つの特徴が認められる。
1)ゲミュートローゼ
2)ナルシシスト
3)マニピュレーター
まず、これまでのプーチン大統領のふるまいを振り返ると、思いやりや良心、罪悪感や羞恥心などが欠如しているように見える。こうした高等感情はドイツ語で「ゲミュート」と呼ばれる。この「ゲミュート」を持たない人を、ドイツの精神科医クルト・シュナイダーは「ゲミュートローゼ」と名づけたのであり、「情性欠如者」と訳される。
今回の侵攻もそうだが、2014年3月にウクライナ南部のクリミアを武力で併合したときも、後ろめたさも悪びれた様子も一切示さず、冷酷にやってのけた。また、プーチン大統領の政敵になりうる政治指導者や批判的なジャーナリストが襲撃されたり、拘束されたりする事件も相次いで起きている。プーチン大統領の仕業という確証はないものの、誰が得するかは一目瞭然だ。反省も後悔もしないから、同じことを繰り返すのだろうと思うが、これも「ゲミュートローゼ」の特徴である。
「ゲミュートローゼ」が罪悪感を覚えないのは、異常に意志が強いからだ。鋼鉄のごとき意志の持ち主であり、屍を超えて進むこともいとわない。だから、意志と罪悪感が衝突すると、必ず意志のほうが勝つ。当然、政治家や実業家、作家や芸術家などの社会的成功者にも「ゲミュートローゼ」は少なくない。その典型がプーチン大統領といえる。
このように意志が強い一因として、強い自己愛が挙げられる。ナルシシストだからこそ、自分自身の意志をあくまでも押し通そうとするのだが、プーチン大統領もその1人のように見える。上半身裸で運動したり、熊にまたがったりした写真を公開し、その写真が掲載されたカレンダーを販売しているところにも自己愛の強さがうかがえる。
ナルシシストが何よりも恐れるのは、自己愛が傷つくことである。だから、自身が大統領を務めるロシアの経済力や影響力の相対的低下、さらには国際的地位の低下は何よりも耐えがたかったはずだ。これまでは弟分と思っていた中国のGDPが飛躍的に伸び、国際社会における存在感と影響力も高まって、米中対立が国際政治の最大のテーマになったことも、プーチン大統領は屈辱と感じたかもしれない。その巻き返しを図り、二大国といえばアメリカとソ連を指したかつての米ソ冷戦時代のように、ロシアをもう1度大国として復活させたいという思惑があったとも考えられる。
そう考えれば、自国の強さと存在感を誇示するためにウクライナ侵攻を以前からもくろんでいた可能性は十分ある。問題は、ナルシシスト、とくに「補正要素」が欠けた悪性のナルシシズムの持ち主には、「客観性と合理的判断の欠如」がしばしば認められることだ(『悪について』)。
今回の侵攻も、経済制裁によって国民が困窮し、ロシアの国際的地位が地に落ちるという事態を招きかねない。実際、ロシア国内でも、今年1月末、退役将校でつくる「全ロシア将校の会」がプーチン大統領に戦争をやめるよう直訴する声明文を発表している。
この声明文には、
「対ウクライナ戦争が起きれば、
1)ロシアの国家的存立に疑問符がつく
2)ロシアとウクライナは永遠に絶対的な敵となってしまう
3)両国で、千人単位(万単位)の若者が死ぬ」
「さらに、ロシアは世界の平和を脅かす国とされ、きわめて深刻な経済制裁を科され、国際社会の除け者となろう」
などと、記載されており、ごくまっとうな指摘といえる。
しかし、プーチン大統領は聞く耳を持たず、偉大なるロシアを復活させたいという自らの意志を貫いて侵攻に踏み切ったように見える。
プーチン大統領は凄腕のマニピュレーター
もっとも、プーチン大統領はやみくもに暴走しているわけではない。自分なりの冷徹な計算にもとづいて自己正当化し、ロシア国民を誘導しようとしている。それが如実に表れているのが、侵攻開始の24日早朝に行った国営テレビを通じた緊急演説である。
この演説で、プーチン大統領は、ウクライナ東部で「軍の特殊作戦を開始する」と表明した。その理由として、ウクライナ政府軍による「ジェノサイド(集団殺害)」が起きていると主張し、軍事作戦の目的は市民を保護するため、そして「非ナチ化」のためと説明した。
この「ジェノサイド」と「非ナチ化」は、ロシア人の被害者意識と恐怖をかき立てるキーワードだ。なぜかといえば、1941年にナチスドイツが独ソ不可侵条約を破って当時のソ連に侵攻し、1945年まで続いた独ソ戦は未曾有の大惨事をもたらしたからだ。
とくにソ連側の人的被害は大きく、1939年の段階で約1億8879万人の人口を有していたが、戦闘員と民間人あわせて約2700万人が失われたとされている。一方、ドイツは1939年の総人口約6930万人から、戦闘員444万~531万人、民間人150万~300万人を失っている。ちなみに、日本の総人口は1939年の時点で約7138万人だったが、戦闘員が210万~230万名、非戦闘員が55万~80万名死亡したと推計されている(『独ソ戦』)。なお、第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出したのはソ連である。
こうした悲惨な結果を招いたのは、ヒトラーをはじめとするドイツ側の指導部が、独ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種」であるスラヴ人を奴隷化するための戦争と位置づけたことによる。ヒトラー自身も、この戦争を「みな殺しの闘争」と呼んでいる。一方、ソ連側のスターリンをはじめとする指導者は、独ソ戦を、かつてナポレオンの侵略をしりぞけた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、ロシアを守るための「大祖国戦争」と呼んだ(同書)。
こうした経緯があるので、独ソ戦の悲惨な記憶、そして語り伝えられたさまざまな物語はロシア人の脳裏に焼きついている。それを想起させ、否が応でも愛国心をかき立てる「ジェノサイド」と「非ナチ化」という言葉を用いてウクライナ侵攻を正当化したのは、プーチン大統領が優れたマニピュレーターだからだろう。
マニピュレーターとは、他人を巧妙に操り、自分の思い通りにコントロールしようとする人を指す。ロシアでは、「戦争は嫌だ」としながらも、「もうほかに手段はなかった」「仕方がなかった」「これはやむを得ない選択だ」という受け止め方が多いと聞く。もちろん、ウクライナ侵攻への抗議活動も行われているようだが、現時点で1745人以上が治安当局に拘束されているという。これでは、プーチン大統領の主張がそのまま通るのではないか。この状態が続けば、まさに凄腕のマニピュレーターということになる。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
大木毅『独ソ戦―絶滅戦争の惨禍』岩波新書、1919年
エーリッヒ・フロム『悪について』渡会圭子訳、ちくま学芸文庫、2018年