正月早々、戦争の語り部2人の訃報が報じられた。1人は長崎の原爆で顔にやけどの後遺症を負い、自らの体験を語り伝える活動を続けた片岡ツヨさん(享年93)。もう1人は、沖縄の「ひめゆり学徒隊」の生き残りとして体験を語ってきた元ひめゆり平和祈念資料館副館長の宮城喜久子さん(同86)である。いずれも昨年末に病気で亡くなったとのことだ。
●減りゆく戦争語り部
昨年末、総務省が発表した人口推計によると、日本では80歳以上の人口は約971万人。85歳以上となると約483万人だ。つまり、終戦の時に11歳以上だった人は国民の7.6%、16歳以上だった人はわずか3.8%ということである。このうち、昔の記憶がはっきりしていて、語ることができる人はどれくらいだろうか。とりわけ戦場の体験者となると、90歳前後ということになるだろうから、証言者を探すことは、至難の業だ。
この拙文を読んで下さっている方の中でも、戦争を実際に体験し、それを語ってくれる人が、今、身近にいる、という方は極めて稀だろう。中には、「そういえば昔、おじいさんが酔っ払った時に、辛そうに中国での体験をもらすのを聞いたことがある」という人がいるかもしれないが、それもたぶん40代以上に限られる。
多くの人にとって、もはや戦争は、紙に書かれた文字や、過去の映像や、あるいは資料館での展示物を通して、イメージするしかなくなった。身内から直に聞く話であれば、それなりのリアリティを伴って伝わるだろうが、文献や資料を通してとなると、よほどの想像力が必要だ。しかも、何を読むか、何を見るかによって、戦争像はかなり異なるものになる。
加えて尖閣諸島などの問題もあって、最近は、中国について、「日本から多額の経済援助をしてもらいながら、感謝もせずに、偉そうな態度をとるのは許せない」となどという物言いを見聞きする。私も、日本が戦後、中国の発展のために何をしてきたのか、中国の人々には知ってほしいと思う。ただ、日本の人々も、日本が多くの中国人の命を奪ったこと、にもかかわらず、日中国交回復時に中国側は賠償請求を放棄したこと、そのため日本の対中援助は過去の償いの側面があり、被害者遺族には何の賠償もされていないことは、ちゃんと知っておきたい。
こういう話になると、では日本が奪った命はどれくらいあるのか、という議論になる。たとえば、多くの市民が日本兵によって殺害された「南京事件」については、中国は30万人以上が虐殺されたと主張するが、日本の研究者の推計はそれよりずっと少ない。例えば、慰安婦問題で朝鮮人の強制連行を否定する調査結果で知られる歴史家の秦郁彦氏は、約4万人と見積もっている。それでも、大変な数の命である。
このような事件が起きたのは、日本兵がとりわけ残虐だったから、ではない。一般人の虐殺は、アメリカも行った。広島や長崎への原爆投下、東京など都市部への空襲は、組織的計画的な大量無差別虐殺としか言いようがない。ベトナム戦争では、米兵のみならず、韓国兵も民間人虐殺を行った。
近年のイラク戦争でも、市民がたくさん犠牲になり、捕虜となった人々への虐待陵辱も行われた。その実行犯となった兵士の家族がマスメディアのインタビューで、息子がどんなに優しい人間であるかを語っていたのが印象的だった。家に帰れば優しく、親切で、思いやりのある、まじめな人を、平時では考えられない行為に走らせてしまうのが戦争、というものなのだろう。
●戦争体験者の苦しみを共有するためには
かつて、ヨルダン川西岸の占領地で兵役を務めたイスラエル人男性に話を聞いたことがある(イスラエルでは男女とも兵役の義務がある)。任務中は、何度もパレスチナ人の家の壁を爆破して押し入り、市街地に向けて砲撃したりするような非人道的行為を何度も行った。そうした行為に関わった兵士たちは、退役後、体験を胸にしまって、普通の市民として社会に復帰する。だが、彼は自分の行為について考え、悩んだ挙げ句、体験を公表することにした。彼は、こう言った。
「普通の市民としての感覚で考えてみると、兵士としてやったことの9割はとても正当化できない。あれは自分がやったんじゃないと思い込もうとした。でも、できなかった」