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大塚将司「【小説】巨大新聞社の仮面を剥ぐ 呆れた幹部たちの生態<第1部>」第3回

ウェブ化で傾いた大手新聞、合併にすがる社長同士が密談!?

「日々新聞」の前身は明治12年(1879年)、大阪で創刊された「大阪毎朝新聞」だ。3年後に東京に進出、「東京毎朝時報」を発刊した。東阪合わせ最大部数を誇ったが、昭和初期には反軍部の論調が災いし、右翼の襲撃事件などもあり、トップから転落した。戦時中に東西の題字を「日々新聞」に統一、軍国主義路線への転換で、2位の座を死守した。

 戦後はその反省から左翼路線に左旋回し、リベラル派の牙城といわれた国民新聞と部数を争った。しかし、昭和40年に「防衛庁公電窃盗スクープ事件」で記者が逮捕され、日々の読者は同じリベラル路線の国民に流れた。

 事件前に370万部あった日々の部数は270万部に激減、部数第3位に転落した。ちなみに、国民の部数は事件前の350万部から450万部に急増、日々の読者がそっくりそのまま国民に移動した。事件を機に日々は対米追従路線に論調を転換したが、同じ路線の大都の読者を惹きつけ、部数挽回につなげることはできなかった。国民との差は拡大するばかりだったうえ、広告離れも重なり、赤字転落した。

 もう一つの「亜細亜経済新聞」の前身は明治9年(1876年)、大阪の財界が創刊した「内外商品時報」だ。2年後の株式取引所条例制定を受け、東京、大阪で「東京市場新聞」「大阪市場新聞」を発刊。株式、商品などの市場情報を発信する新聞として頭角を現した。戦時体制下で経済関係新聞の一社統合策で「亜細亜経済新聞」を発刊した。

 戦後は、政府と一体で、日本の戦後の高度成長路線を推進、部数を伸ばし100万部を達成した。しかし、昭和40年の証券不況の影響で、広告が急減したうえ、個人投資家の株離れで部数も80万部に減った。その結果、赤字に転落し、資金繰りにも四苦八苦した。

 そんな時、「公電窃盗スクープ事件」でやはり赤字に転落した日々との合併構想が銀行筋から持ち込まれ、飛びついたのだ。日々は戦前には部数トップの座にあった老舗の大手、腐っても鯛だ。赤字になったとはいえ、東京や大阪に優良不動産をいくつも持っていた。亜細亜経済が生き残るためには願ったりかなったりの合併だった。

※本文はフィクションです。実在する人物名、社名とは一切関係ありません。

※次回は、来週11月3日(土)掲載予定です。

【過去の連載】

第1回『新聞を読まない、パーティー三昧…巨大新聞社長の優雅な日々』
第2回『社用車で演歌を唸り、ホテルのスイートを定宿にする巨大新聞社長』

●大塚将司(おおつか・しょうじ)


作家・経済評論家。著書に『流転の果てーニッポン金融盛衰記 85→98』(きんざい)など

BusinessJournal編集部

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