ライブドア元幹部が語る、ホリエモン仮釈放支援に取り組むワケ
小さな話ですが、当時の幹部たちにだって「これからの自分の生活はどうなるか」という不安もある。そうした中で、堀江さんがリーダーシップを発揮できなかった。すべての責任を部下に押し付けて、「自分は知らなかった」というスタンスを貫いてしまったように見えた。甘えかもしれないけど、「僕らをかばってほしかった」という気持ちはあった。「最後の最後で庇ってくれないのかよ。堀江さんはキャッシュがあるからいいかもしれないけど、俺たち金ないぞ」みたいな(笑)。
ーーそれでも熊谷さんは、事件後プライベートでも堀江さんと付き合って、支援されているというのはなぜでしょうか?
熊谷 堀江さんは裁判を通じて、一貫して無実を主張したのが、「らしいな」と思ったんですね。あれだけ突っ張っておきながら、執行猶予もらうために「やっぱり違法だと知りながらやっていました」と変わっていたら、尊敬の念が薄れたと思いますが、最後まで言い通したのが「ようやるよ」と(笑)。それは、ライブドアという会社を守るための、創業者、経営者としての姿勢だったんでしょう。
ーーその姿勢は正しかったと?
熊谷 堀江さんが主張を貫いたおかげで、「上層部がグルになって不正なことをやっていた」というのではなく、「役員たちは一生懸命やっていたけど、『国策捜査』のなかで捕まってしまったんだな」という考えが、世間の人々の中に芽生えるわけじゃないですか。
●国策捜査
ーー「国策捜査』の話が出ましたが、当時、特捜部の最高幹部が「額に汗して働く人々やまじめな企業が出し抜かれることのないように、不正に利益をむさぼる者と闘うんだ」という趣旨のことを言い、それを支持する空気の下で、ライブドア事件の捜査や公判が進みました。
熊谷 私たちは、十分に汗をかいていました。お客さんの要望に応えるものを設計して作り上げる。建築屋さんと変わらない。ただそれが木材やコンクリートを使わないだけで、それが「額に汗をかかない」ということではないのではないでしょうか。
ーー「本業の実態」がちゃんとあったと。
熊谷 当時、ポータルサイトの個人の利用者は2000万人弱、グループ全体の法人のクライアント数でいうと数万社あったはずです。ホスティングといって、インターネットのホームページをお預かりして運用しているところだけで数万社。そのほか、iモードのサイトを作るなどのウェブ制作や、弥生という会計ソフトの開発も手掛けていました。
ーー「ライブドアは、金にものをいわせて小さい企業=弱者をどんどん買収している」というイメージも広められ、「土地転がしの会社版だ」というような批判もされましたね。
熊谷 当時は、インターネットサービスの利用者の導線というのは極端にポータルサイトから入っていたのですね。ヤフーなどのポータルサイトで検索をして、サービスに辿りつく。つまり、小さいサイトはどこかの大きなポータルサイトと一緒にならないと立ちゆかなかった。ですので、ポータルサイトを運営しているライブドアに株を売ることはウエルカムな企業は多かった。会社の買い手候補がいくつもあった中で、堀江さんは買った後はその会社に経営を任せるタイプで、しかも技術畑なので技術者の気持ちもわかるので、いろんな会社がついてきました。買収した後で売った会社もない。「売り買い」じゃなく「買うだけ」です。
●お金に苦労していた堀江氏
ーーライブドアという会社だけではなく、堀江さん個人についても、「金の亡者だ」というイメージがメディアによって広められましたね。
熊谷 堀江さんは世間に思われているのとは異なり、実際にはずっとお金に苦労した人です。ニッポン放送の事件まで、彼個人は借金の方ほうが多かった。いつも「どうやって税金払おうか」と悩むぐらいでした。
ーー経営者としての堀江さんを、熊谷さんはどのように評価されていますか?
熊谷 「ビジョンを提示する」という面ですごいのと、ライブドア社員は個性豊かな人間、変わり者が多かったですが、その部下たちをよく束ねたなと。みんな自己主張も強いし。やっぱり、カリスマだったのかな。細かいことにもうるさかったですね。1億円クラスの案件についてはぽんぽん決裁していくのに、クリアファイルやボールペンの発注などについては細かかったり(笑)。
●プロセスがあいまいな仮釈放制度
ーー「支援の会」の話に戻りますが、仮釈放というのは、どんな場合に認められるんですか?
熊谷 刑法28条に定めがあって、「刑期の3分の1が終わっている」ことが要件です。法務省の管轄で地方更生保護委員会というところがあり、そこで決まるのですが、決定プロセスがブラックボックスになっていて、外部からではよくわからないのです。裁判員制度になったことも踏まえ、透明化されるべきだと思っています。