経済学的に正しい、低コスト“ばらまき型”予防医療とは?格差是正、医療費削減の効果も
数多くの大企業のコンサルティングを手掛ける一方、どんなに複雑で難しいビジネス課題も、メカニズムを分解し単純化して説明できる特殊能力を生かして、「日経トレンディネット」の連載など、幅広いメディアで活動する鈴木貴博氏。そんな鈴木氏が、話題のニュースやトレンドなどの“仕組み”を、わかりやすく解説します。
残念なことに欧米同様、日本も格差社会になってきている。先進国のよいところは年収300万円でも十分文化的で楽しい生活を送れることにある。居酒屋で280円均一メニューを楽しめるのも、100円コンビニで飲料や生活雑貨を手に入れられるのも、ネットカフェで3時間パック980円でパソコンもドリンクバーも漫画も使い放題なのも、日本が先進国になったおかげである。
一方で(日本だけでなく)先進国政府の共通の悩みは、雇用のコストが下がってしまったことだ。IT化、インフラ化によって判断業務が減り、マックジョブと呼ばれる単純作業で業務が維持できるために、そのような職場で働く労働者には十分ではない給与しか回ってこない。
格安でサービスが享受できる社会は、給与も格安な社会である。経済全体で見てもアメリカでは1980年以降、80%の労働者にとっては給与水準は横ばいか減少傾向にある。経済発展の利益の大半を享受できているのは、人口のわずか1%のエリート層なのである。
さて、先進国の悪いところは、一旦、歯車が狂ってしまうと、さらに最下層へと落ち込んでいくリスクがあることだ。そして実際に先進国で共通する「一般層が貧困に陥るきっかけ」は病気(およびけが)である。
私自身で考えてみてもすぐに背筋が寒くなるのだが、仮に今日から突然入院生活が始まり外部にも出ることができず、パソコンのキーボードも触れられないような状況になった途端、収入は1カ月後にはゼロになる。私のような一人で働く自営業者の場合は、普段どれだけ収入が多くても、自分がアウトになれば生活収入も即アウトになる。会社員ならある程度の期間は会社が面倒を見てくれることが期待できるが、それでも時間と程度の問題で「いつまでも」ということにはならない。
では自分がそのような状態になるのはどのようなケースかというと、突然脳卒中で倒れる、重大な交通事故に遭う、そして危険ながんが発見されるというように、40代以降の中高年になると誰にとっても可能性のあるケースだ。
治療より低コストな予防医療を行わないのは世界共通?
さてここまでが前提で、ここからが今回の本題である。
けがにしても病気にしても避けられない場合もあるが、予防できることも多い。そして医学の世界では、治療にかかるコストよりも予防にかかるコストのほうがはるかに低いことがわかっている。
例えば世界の貧困層では5歳前に死ぬ子どもが毎年900万人に上る。その大多数はインドやバングラデシュのような南アジアとアフリカ地域に集中しているのだが、5人に一人の死因は下痢である。インドでこの問題に取り組んでいるNPOの方の話によれば、この下痢は水を殺菌する塩素で予防でき、標準的な6人家族の場合、米ドルで18セントで十分な量の塩素が手に入るそうだ。インドの貧困家庭は世界の中でも最貧困層に分類されるのだが、それでも18セントというのは手の届く価格である。年収300万円の日本人が薬局で1200円の正露丸を買うのと、家計への影響という点では大差ない。にもかかわらず、下痢の予防のために塩素を購入する家庭は多くない。
また、アフリカではマラリアが問題だ。マラリアの予防には蚊帳が効果的で、塩素よりは高価だが、14ドル程度で子どもをマラリアから守ることができる。蚊帳を購入できない貧困層を支援するNPOが、蚊帳を75セントで配布するプログラムを実施しているが、この価格でも蚊帳の需要は多くないそうだ。
ではこれらの家庭で病人が出た場合どうなるのかというと、貧しい家庭でも出費を切り詰めたり高利でお金を借りて治療を行う。インドのある地域の調査では、貧困家庭の8%で突発的な健康問題が発生しており、その結果、それらの家計では平均して288ドルの医療費をねん出しているというのだ。
つまり人々は、1ドルかからない予防費用にはまったく関心を持たない一方で、家族が病気にかかると、収入レベルには関係なくなんとか治療しようと彼らにとって高価な医薬品を購入する傾向があるのだ。
先進国の貧困問題
実はこれらの事実は、世界の貧困層に共通する傾向である。世界の貧困層とは、アフリカや南アジアの人たちだけではなく、先進国でも共通だという意味だ。
日本と違い、医療保険制度が不十分なアメリカの場合、年収300万円(3万ドル)程度の中流層(中の下)の家族では、一家の誰かが糖尿病のような高額な治療費のかかる病気を発症しただけで、一気に貧困層に転落するケースは少なくない。
ちなみに糖尿病はファーストフード先進国アメリカの中流層においては、極めてありふれた疾病リスクである。予防するには糖分を大量に含んだ炭酸飲料を飲む量を減らしたり、ハンバーガーやポテトチップス、チョコバーなどを口にする頻度を減らせばいいのだが、多くの家庭では予防への関心は高くない。アメリカの高校でもさまざまな公共機関やNPOが偏った食生活のリスクを教えているのだが、家庭の主の話を聞くと「学校でそのような教育を受けたことはない」という。啓蒙活動の量が不足しているのか、その対象となる人々が予防に関心がないのか、いずれにも問題があるのだろうが、糖尿病大国アメリカでは、先進国であるにもかかわらず、その予防には十分な効果が得られていない。
そして日本では、なんといってもがんの予防が最大の課題だろう。
私の知人も、検診で予防できる可能性の高い乳がん検診の普及に力を入れているが、なかなか予防への関心を高めることが難しいそうだ。私自身の経験でも、人間ドックで毎年胃がんや大腸がんの検査をしただけで安心している。実は知識としては胃がんの場合、半年に一度検査をしないと、年に一度の検査では手遅れで発見される可能性があるということを知っている。しかし内視鏡検査を年2回受けるのは苦痛だという理由で、年1回の人間ドックで「まあいいか」ということになっている。
内視鏡検査の出費(負担額)は1回6000円。がん治療にかかる推定費用は数百万円だといっても、私自身がより安価な予防に関してこのありさまだ。私の場合、実はがんにかかったとしたら私自身は困るが、治療にも死後の家族の生活費にも保険が下りることになっているため、家族の生活水準が大きく変わることはない。
しかし、日本にこれから急増していくことになる年収300万円層にとっては、そうはいかない。アメリカの中流家庭同様に、日本の中流家庭でも、一家の働き手ががんにかかってしまった途端に、家計の前提の歯車が食い違ってしまうということは起きうるのだ。
ダールの豆プログラム
さて、この問題を個人の問題ではなく社会の問題として捉えた場合、解決策はないのだろうか? このように病気にかかる前の安い予防策には関心を持たず、病気にかかった後はいくら高くても治療に費用をかけるというのが、世界共通の人間の性(さが)のようだ。
しかしインド西部のある都市でNPOが行った興味深いプログラムに、問題の解決のヒントがあるかもしれない。このNPOでは子どもに予防接種を受けさせるのに、単に予防接種を無料にするだけではなく、予防接種一回につき、その土地の主食であるダール豆900グラムを母親にプレゼントすることにした。
その結果、何が起きたのか? この地域ではそれまで5%だった予防接種率が一気に38%にまで向上したのだ。900グラムのダール豆はNPOにとってはわずか2ドル以下のコストなのだが、それだけのコストでこの予防接種プログラムは世界でも類を見ないほどの成功を収めたのである。
これを日本に置き換えて考えてみよう。
乳がんの予防は、がん患者を減らすことで健康保険の財源を減らす効果がある。だからさまざまな広報活動を行って、がん検診への参加を呼び掛けているのだが、なかなか十分な状況には至っていない。
そこにもし、このダール豆のプログラムを導入したらどうだろう?
日本とインドの購買力平価で考えれば、たとえば「乳がん検診をした女性には、もれなく3000円のお買い物券を差し上げます」という感じだろうか。そうすれば、乳がん検診の受診率は飛躍的に高まるのではないだろうか?
でも「もし、そんなことをして100万人がこのプログラムに殺到したらどうなる?」という反論があるかもしれない。計算してみよう。100万人に3000円を配ったら、その合計コストは30億円になる。一方で、もしそれで1000人の乳がんが予防できたら、一人当たり400万円、合計の治療費が40億円節約できるかもしれない。だったら病気の予防にインセンティブをばらまくというアイデアの収支は、意外と合うのではないのか?
そして何よりもいいことは、このような知恵を用いることで、格差社会のセーフティーネットがまたひとつ、低コストで拡充されることになるかもしれないという点なのだ。
(文=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)