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江川紹子の「事件ウオッチ」第155回

「リニア開業延期」は静岡県が“ゴネた”せいか?地方が犠牲の「地方創生」はあり得ない

文=江川紹子/ジャーナリスト
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リニア問題で初めて会談した川勝・静岡県知事とJR東海・金子社長(静岡県公式YouTubeより)。

 新聞の「首相動静」欄によれば、安倍晋三首相は7月3日夜、葛西敬之・JR東海名誉会長と、東京・赤坂の日本料理店で食事をした。この5年間の同欄を見ると、葛西氏とは年に3回から5回、食事を共にしている、首相の“メシ友”の1人だ。首相と葛西氏の会食は、北村滋・国家安全保障局長、もしくは古森重隆・富士フイルムホールディングス会長が一緒のことが多いが、この日は北村氏が同席していた。

 この席で、リニア中央新幹線建設工事のことは、当然話題になっただろう。

国家プロジェクト化したリニア建設

 JR側にとって悩みの種は、南アルプストンネルの静岡工区(8.9キロ)。大井川の水量減少を懸念する静岡県が着工に同意せず、工期が遅れている。6月26日にJR東海の金子慎社長と静岡県の川勝平太知事が初会談したが物別れに終わり、首相と葛西氏の会食のあった7月3日には、県が文書で「作業開始は認められない」と通告した。これで、2027年に品川―名古屋間、早ければ37年に大阪までの全線を開業させるというJR東海が立てた予定は、実現が難しくなった。

 安倍首相は、これにどんな反応を示したのだろうか。

 リニア新幹線は、JR東海の事業であると同時に、政府が後押しする国家的プロジェクトでもある。安倍首相の音頭によって、3兆円を無担保超低利で貸し付け、30年間は元本返済猶予という財政投融資を活用することが可能となった。JRの当初の予定では、大阪までの延伸開通は2045年の予定だったが、現政権の支援でそれが早まることになったのだ。

 2016年1月に行った施政方針演説で、安倍首相は「リニア中央新幹線が本格着工しました。東京と大阪を1時間で結ぶ夢の超特急。最先端技術の結晶です」と期待を語った。記者会見でも、「新たな低利貸付制度によって21世紀型のインフラを整備する」と述べ、「リニア中央新幹線の計画前倒し、整備新幹線の建設加速によって全国をひとつの経済圏に統合する地方創生回廊をできるだけ早く作り上げる」(同年6月1日)と強い意欲を語った。リニアに対する安倍首相の期待の高さが、言葉の端々からうかがえる。

 また、リニアの技術輸出は、安倍首相が力を入れるインフラ輸出の中核ともいえる存在だ。米ワシントン-ボルティモア間で、JR東海のリニアモーターカーを導入するプランも上がっているが、日本での開業計画が遅れれば、海外への売り込みの予定も狂ってくる可能性がある。

 懸案の静岡工区は、品川-名古屋間全長286キロの工区の約3%にすぎない。その着工遅れで、この大プロジェクトの実施が遅れることに、ネット上では「静岡県がゴネている」との非難の声が上がっているが、果たしてそうなのだろうか。

地元の懸念とJR東海の不誠実

 同県が一貫して訴えているのは、工事によって、県民の生活を支えている大井川の水量が減少するのではないか、という懸念であり、そうした事態を避けるための対策の必要性だ。

 問題となっている南アルプストンネルは、大井川の真下を通り、大量の水を含む破砕帯を掘り進めて作られることになる。その工事の過程で、どこから、どれだけの水が出るかは、実際にやってみなければわからない。

 このため、営業中の東海道新幹線の直下を掘って新駅を作る品川、名古屋両ターミナル駅の建設と並び、南アルプストンネルは歴史的な超難工事といわれている。

 JRは、これらの難工事について、事前に特定のゼネコンに工法を研究させ、技術開発も行わせてきた。費用はゼネコン持ち。それを請け負ったゼネコンは、当然工事も受注するつもりでいたところ、実際に業者の選定をする段階になってJR側がとったのは、技術的評価が低い、ほとんど値段のみで業者を選定する方式での指名競争入札だった。このため、事前検討を行ってきたゼネコンが契約を確実にし、技術的な検討を行っていないゼネコンは万が一にもこんな難工事を落札しないよう、各社の担当者が事前に見積もり価格を教え合い、それが談合として刑事事件に発展する事態も起きている。

 南アルプストンネル静岡工区について、JR側は、湧水はポンプアップして大井川に流し「湧水は全量を大井川に流す」と県側に説明している。しかし、破砕帯の水の流れが工事によってどう変わるのかは、予測がつかない。

 静岡県が水の心配をするのは、工事によって水涸れが起きた事例がいくつもあるからだ。

 新東名高速道路の建設工事が進められていた1999年、静岡県掛川市の粟ケ岳トンネル工事現場で出水。まもなく付近で、農業用水にしていた沢が涸れ、地下水を水源とする簡易水道が断水した。観光名所でもある「松葉の滝」も一時は水が止まり、現在にいたるも水量は3割程度しか戻っていない、という。

 また大井川の豊かな水は水力発電に利用されてきたが、いくつものダムが造られていくなかで、水量が減少。1960年、大井川中流域に中部電力の塩郷ダムが設置された際には、下流域は水が失われて「河原砂漠」と化した。この時には、流域住民が水量の復元を求めて「水返せ運動」を展開。県が中部電力に水利権の一部返還を迫るなど、官民一体となった運動で、時間をかけて水を取り戻した。この運動に携わった人たちが再び集まり、今回のリニア工事でも声を上げている。

 さらに、古くは1933年に完成した東海道本線丹那トンネルの建設工事に伴う水涸れがある。工事中の大量の出水に手を焼いて、多量の水抜き抗を掘った結果、丹那盆地の豊富な湧水は失われた。田んぼは乾田と化し、わさびの沢も消えた。

 大井川は、流域の茶畑をはじめとした農業用の水として、あるいは水産加工場など多くの水を使う産業用水として、流域の生活用水として、人々の命を支えている。過去の轍を踏むまい、という静岡県の要求は、決して無理なものではないのではないか。

 リニアが、東京や名古屋など大都市圏をますます繁栄させ、日本経済を押し上げていく効果はあるとしても、そのために地方の暮らしを犠牲にしていい、ということにはならない。東京圏に電力を供給していた福島県が、原発事故で大きな損失を被ったような構図を繰り返してはならないだろう。

 国がバックについているという自信もあってか、JR側は水問題についての静岡県の本気度を当初、いささかみくびっていたように思えてならない。工事の遅れが懸念される事態となって、歩み寄りの態度を見せるようになったが、県との対話では、JR側の説明の矛盾が発覚することもあった。

 たとえば、JRが「水は全量大井川に戻す」と言い切った後、県側の追及で、それが不可能と認める事態になった。トンネルの形状は、静岡工区を頂点とし、長野、山梨両工区に向かって下りの傾斜がある。JR側は静岡工区は下り勾配で工事を進めるとしているが、そうすると、工事が完成するまでの間、湧水は長野、山梨両県側へと流出することになり、水の「全量」を大井川に戻すのは無理だ。

 工事期間の問題とはいえ、こうした不都合な事実を伏せるJR側の説明の透明度の低さや不誠実さに、県はますます不信をつのらせていったようである。

 国交省が間を取り持つ形で有識者会議を立ち上げたが、同省はあくまでリニア建設を推進する立場であり、中立的な立場ではない。会議のメンバー候補に、工事を受注する企業の監査役が選ばれ、県が反発するなど、委員の人選を巡ってもすったもんだがあった。

 ようやくできた会議に、JRの金子社長がオンライン参加。静岡県について「あまりに高い要求を課している」などと批判し、会議に対して「現実的な解決」を求めたことも、県側の神経を逆なでした。川勝知事は、「有識者会議を自分たちのための会議のように私物化している」と激怒。その剣幕に押されるように、JR側は謝罪した。

談合を誘発し、県の抵抗を招いたJRに今後求められるのは

 国鉄の分割民営化からすでに33年。リニア新幹線は、JR東海となって、初めて自前で建設する新線。建設予定地の地元との交渉、ゼネコンとの付き合い方など、国鉄時代からの鉄道建設のノウハウは伝承されていないのではないか。その一方で、国が後押しし、愛知県を含め周辺自治体が早期開通を切望しているという自信もあり、JR側は自分たちが決めた通りのやり方に、地元自治体もゼネコンも従うだろうと高をくくっていたところはなかったか。このために、談合事件を誘発し、静岡県の抵抗を招いたのではないか。

 私には、今回の事態と談合事件は同根のような気がしてならない。

 コロナ禍のなかで、リニア建設そのものに疑問の声も上がり始めている。リモートワークが当たり前に行われるようになり、わざわざ東京・名古屋間を出張しなくても、多くの仕事が可能とわかった。さらに、第5世代移動通信システム(5G)の普及が進めば、いながらして快適にテレビ会議を行うことができる。今さらリニアが必要なのか、という根本的な問いである。

 また、エネルギー問題の視点からも、リニア建設には従前から疑問が提起されている。現在の東海道新幹線などに比べ、電力消費が数倍になるため、今後の社会が目指す方向性とは逆行する、という指摘だ。

 リニア新幹線は、かつて英仏で共同開発されながら、燃費の悪さやメンテナンスコストの高さ、騒音など環境問題などで嫌われ、引退に追い込まれた超音速旅客機コンコルドにもたとえられる。

 とはいえ、すでに他の工区で工事は始まっており、名古屋駅周辺はリニア建設を前提に再開発も進められている。国もJR東海も、今さらプロジェクトそのものの中止は考えないだろう。静岡県もリニア建設そのものに反対しているわけではない。

 そうであれば、JRは自身のこれまでの対応を振り返り、反省するところから始めたほうがいいのではないか。信頼がないのにごり押しをしても、抵抗と恨みを生むだけだ。

 静岡県といういち地方を犠牲にした「地方創生」などあり得ない。国も、事業の推進を急ぐより、まずは静岡の懸念に、誠意をもって向き合うべきだろう。

 急がば回れ、というではないか。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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