最近は中国の景気減速や人民元安などで一時に比べ勢いが鈍っているものの、中国人富裕層による活発な消費行動は日本でも注目の的だ。その大胆な買いっぷりは「爆買い」と驚きの目で見られるが、その一方で、「買いあさり」と蔑む向きも少なくない。
金に物を言わせる態度に反発したくなる気持ちはわかる。けれども忘れてはいけない。日本人自身、戦後の高度成長期やバブル期には、今の中国人と同じく、海外高級ブランド品などの大量購入が、欧米から「買いあさり」とおとしめられていた。
それだけではない。歴史上、日本人なら誰もが優雅なイメージを抱く時代に、高貴とされる人々が目の色を変え、先を争って高級で珍しい舶来品を買いあさっていたのだ。時代は平安時代、買いあさりの主役は平安貴族たちである。
当時、舶来品は「唐物」(からもの)と呼ばれた。本来は中国からの舶来品、もしくは中国を経由した舶来品を指す言葉だったが、それが転じて、広く異国からの舶来品全般を総称するものとなった。華やかに繰り広げられる宮廷行事において、その場を飾る品や献上品として、唐物は重要な役割を果たした。皇族やその周囲の貴族層は、唐物という入手困難な贅沢品を手に入れることで、みずからの政治的・文化的優位を示そうと躍起になったのである。
唐物の需要が高まったことを背景に、863年には唐物使(からものつかい)と呼ばれる、外国の商船がもたらした唐物を朝廷が優先的に買い上げるための使者が、朝廷から福岡の大宰府に派遣されるようになる。朝廷が唐物を独占するための仕組みである。
ところが朝廷による独占は長続きしなかった。唐船が博多に到着すると、朝廷が唐物使を派遣することになっているのに、その前に平安京の貴族たちが私的な使者を遣わし、競って唐物を買い集めたからである。大宰府周辺の富裕層も購入に加わった。朝廷はこれらの行為を禁止したものの、効き目は薄かった。朝廷の唐物独占のシステムが揺らぐと、商人が売買に乗り出し、貴族や富裕層に唐物が広く普及することになった。
一方で、博多湾には新羅や唐の商人が自由交易を求めて来航するようになる。こうした民間貿易の拡大を背景に、日本史上、有名な出来事が起こる。遣唐使の停止である。
遣唐使は、朝廷が唐に派遣してきた公式の使節だ。894年、「学問の神様」として知られる菅原道真が56年ぶりの遣唐使の大使に任命されたが、道真は停止を建議した。唐から届いた留学僧の手紙により、唐国内の混乱や衰退を知っていたためだ。