「メロスは激怒した」とは太宰治の「走れメロス」の有名な冒頭だ。しかし、この作品の「最後の一文」を覚えている人は決して多くはないはずだ。
「最初が肝心」というが、「終わりよければすべてよし」ともいう。小説の「最後の一文」は、末尾部分を冒頭文とどのように照応させて、作品としてのまとまり感や完結感を示すか、という重要な一文でもある。
■あの文豪はなぜ「冒頭」と「末尾」を同じ文にしたのか
その末尾の一文に焦点を当てたのが『最後の一文』(半沢幹一著、笠間書院刊)だ。明治の文豪から現代の有名作家まで、計50の文学作品を取り上げ、それぞれの「最後の一文」から読み解ける終わり方の謎を解説している。
この中に、最初と最後の一文がまったく同じというユニークな作品が取り上げられている。ノーベル賞作家・川端康成の「有難う」(『掌の小説』所収)という小説だ。
この作品は、「今年は柿の豊年で山の秋が美しい」という一文がから始まり、最後もこの一文で終わる。さらに著者は、この一文が川端作品において異例であるということも指摘する。最後の一文が自然描写である作品は、この「有難う」の他に「不死」(『掌の小説』所収)の一編しかないのだ。
そんな一文は、それだけで一段落を構成しており、さらに内容的にその直前、直後の文脈ともつながっていない。そもそも、この作品の中には柿のことも、山の風景についても、全く描写がない。
川端はこの一文をどのように物語と結びつけようとしたのだろうか?
本作は、母親が娘を売りに行くため一緒にバスに乗るところから始まり、その運転手とのやりとりを経て、翌朝、その二人が家に帰るため、またバスに乗るところで終わる。
この登場人物たちと、冒頭・末尾の一文の自然描写の関連性について、著者は3つの可能性を考える。
一つ目は、この作品の母娘はけっして生活が楽なわけではなく、秋の紅葉を楽しむ余裕などないかもしれないが、この人々は実質的にも非実質的にも、生きることに実は恵まれているという重ね合わせが意図されたのではないか、ということ。
二つ目は、柿が豊年であることも、山が美しいことも、いわば自然の営みの結果であり、その営みが登場人物たちの生き方にも当てはまるのではないか、ということ。
三つめは、同様のエピソードがこれからも人々の間で繰り返されていくことを暗示しているのではないか、ということ。
その上で、著者は「そのような中を生きる人々に対する書き手からのオマージュのように思えてならない」(p.81より引用)と述べる。
冒頭と末尾を同じにした理由は、川端にしか分からない。ただ私たちは、この「有難う」という、かの三島由紀夫も高く評価した作品を読み味わうことができる。その上で自分なりの答えを考えてみるのもいいのかもしれない。
芥川龍之介から東野圭吾といった現代小説まで、最後の一文からその小説を考察している本書。小説を最後まで読んで、最後の一文に注目し、もう一度読み返してみると、より深く物語を理解し、楽しむことができるはずだ。
(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。