覚えてる?全キャラクターを2人で演じた『まんが日本昔ばなし』声優の生涯
あなたにとって「懐かしい」とはどんな情景でしょうか? 1970~90年代の「懐かしい」を集めたのが「ミドルエッジ」。あなたの記憶をくすぐる「懐かしい」から厳選した記事をお届けします。
今回のテーマは、「まんが日本昔ばなしの声優」。放送開始から同作の語り手を務めた市原悦子さんと常田富士男さんの生涯について振り返ります。
1975年に始まった『まんが日本昔ばなし』
1975年1月7日に「こぶとり爺さん」と「笠地蔵」で幕を開けた『まんが日本昔ばなし』(TBS系)の歴史。放送開始以来、日本各地に伝わる民間伝承を時にユーモラスに、時にシニカルにアレンジ。名作が次々と誕生し、お茶の間の人気を獲得していきました。
それらのナレーション、キャラクターボイスはすべて市原悦子さんと常田富士男さんが務めていたことはよく知られています。市原さんの声といえば、明るく柔和なハイトーンボイス。一方の常田さんの声は、どこかとぼけた調子のある優し気なおじさん声。市原さんが可憐な町娘を演じれば、片や常田さんは悪代官を演じ、常田さんがキップのよい若者を演じれば、片や市原さんが老婆を演じるなど、見事に役柄を演じ分けました。
なお、市原さんは2019年1月12日に心不全で、常田さんは2018年7月18日に脳内出血でそれぞれ鬼籍に入っています。
市原さんといえば『家政婦は見た!』。一方の常田さんは……
市原さんといえば、テレビドラマ『家政婦は見た!』(テレビ朝日系)での名演があまりにも有名。1990年には映画『黒い雨』での演技が認められ、第13回日本アカデミー賞・最優秀助演女優賞を受賞するなど、華々しい経歴を歩んできました。さらにその演技力は映画作品だけでなく、舞台作品においても発揮されています。劇団四季創設者のひとりである浅利慶太さんは、市原さんを多くの舞台で起用し、「戦後新劇の生んだ最高の女優」と大絶賛しています。
一方の常田さんも、知る人ぞ知る名優のひとり。熊本の高校を卒業後、上京して劇団民藝の養成所に入所。以降、黒澤明監督の『赤ひげ』(1965年)や市川崑監督の『幸福』(1981年)、若松孝二監督の『水のないプール』(1982年)など、映画界の巨匠から重用されました。
また、バラエティ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!!』(1969年~1970年)に出演したり、1977年には「まごころの政治」のスローガンと共に東京・保谷市長選に立候補したり(結果は落選)と、多方面で精力的に活動しました。
1970年の迷曲「私のビートルズ」
常田さんの活動のなかでとりわけ印象的なのが、音楽活動です。1970年には、石川さゆりの「天城越え」などを手掛けた名作詞家・吉岡治(当時の名義は「吉岡オサム」)が作詞した「私のビートルズ」をリリース。ロックナンバーである同曲の歌い出しは「ハゲ山のハゲ鷹が 私を少しかじったから ハッシッシ、ハッシッシ、ハッシッシをあげたのさ 夢見るたび」となっています。
ハッシッシ=ハシシとは大麻樹脂のこと。ビートルズといえば、ボブ・ディランに勧められたことをきっかけに大麻を常用していたことで知られていますが、そのことを意識しての歌詞なのでしょうか。後に続く歌詞も、「バラの花をベッドに敷き詰めて、ジョンとポールが愛し合っている」「羽の生えたトイレにまたがって空をヨーコは一人飛んでいる」となかなか意味不明。常田さんの「まんが日本昔ばなし」での声優業とは、かなりかけ離れたイメージとなっています。気になる方はぜひ一度聴いてみてください。
この連載では次回以降も皆さまの脳裏に「懐かしい」が蘇りそうな記事を提供して参ります。「こんな記事は?」「あのネタは?」なんてお声も、ぜひお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。
(文・構成=ミドルエッジ)
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