1948年、競輪は九州の小倉(現・北九州市)で始まり、その歴史は70年以上にもなる。時代の流れとともに大きく変わってきたが、競輪は「庶民のもの」という変わらない性格も色濃く残っている。そして、この競輪場の風景で欠かせない存在が「予想屋」だ。
その歴史70年 競輪を彩った予想屋たち
『親子二代予想屋 「競輪」七十年史』(松垣透著、彩流社刊)では、「夕刊フジ」記者の松垣透氏が、予想屋・青木親子を軸に競輪の「歴史」を紐解いていく。
予想屋とは、どんな職業なのか。予想屋という呼び名も一部では、予想屋から「コンサルタント」に変わった。
ただ、その仕事の内容はまったく変わっていない。レースの予想を売って、当たればお客さんからご祝儀をもらう。そもそも、どうして予想屋がいるのか。昔から誰かに頼りたい、情報を得たい、教えを乞うということがあり、予想屋は存在する。
しかし、競輪場が賑やかだった時代は、場内に予想屋の姿も多かったが、今ではどこの競輪場でもほとんど見かけることはなくなっているようだ。予想屋が減った一番の理由は、競輪場に来るお客さんが減ったこと。
さらに、昔は競輪の情報が手に入りにくかったが、今では簡単にネットで詳しい情報を瞬時に手に入れることができるようになった。また、レースの映像も過去に遡って簡単に何度も見ることができる。競輪場で、オッズの出ているモニターを見ながら、自身のスマホで調べて、車券を予想できる。予想屋を頼ることがなくなったのだ。予想屋は予想を1枚100円でコツコツ売る商売なので、お客さんが多ければそれだけで売れるので商売になるが、お客さんが少ないとそうはいかないので、廃業する人も増える。
平塚競輪場でも、かつては10人以上いた予想屋も、今ではわずかに7人ほど。その中の一人である62歳の青木利光氏は、年配の予想屋が多い中で、まだまだその世界では若手の一人。青木氏は神奈川県で予想屋になり、現在は、平塚競輪場、小田原競輪場を中心に活動している。予想屋が激減している今、なぜ、青木氏は続けているのかといえば、それは、「競輪が好きだから」に他ならない。「思った通りの予想が当たった時の快感がいいんだろうね」と青木氏は語る。
そんな青木氏と父親の青木満氏の親子2代の予想屋から競輪の歴史を描いていく本書。40年以上に渡り、競輪場に通う松垣氏は、「人間が走るから競輪であり、また、それを支えている熱い人たちがいるから、競輪だった」と述べ、その人たちの人間ドラマも競輪の魅力の一つと言う。
競輪をやったことがある人はもちろん、そうでない人にとっても普段見ることのない世界を垣間見るいい機会になる一冊である。
(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。