米子鬼太郎空港、戦時中に海軍基地として開港した長い歴史…JR米子空港駅までの250m
日本の空港は、意外に歴史がある。日本最初の空港は、1911(明治44)年に埼玉県所沢市に作られた旧陸軍の所沢飛行場だ。現在は所沢航空記念公園や米軍所沢通信基地などになっている。
驚かされるのが、その開設時期だ。ライト兄弟がライトフライヤー号で有人動力飛行に成功したのが1903(明治36)年。所沢飛行場は、それからわずか8年後に開港したことになる。リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行を達成する、16年も前なのだ。
初の民間空港は千葉県美浜区に作られた稲毛飛行場、所沢飛行場開港の翌1912(明治45)年に開設されている。ただ、当時は旅客機は存在せず、航空ショーのようなものを行ったり、練習をしたりするための場所だったようだ。
現在も運用されている空港のなかで、最も開港が古いのは八丈島空港だ。1927(昭和2)年に旧海軍の飛行場として誕生しており、東京国際空港(羽田空港)の1931(昭和6)年より4年早い。このほかにも旧軍によって開港した空港は多く、現在自衛隊や米軍と共用する空港も、その多くが戦前・戦中の1930年代後半~1940年代前半に旧陸海軍によって開設されている。
鳥取県、日本海と中海を隔てる弓ヶ浜半島のど真ん中に位置する米子鬼太郎空港
鳥取県の美保飛行場(米子空港・米子鬼太郎空港)は戦争中の1943(昭和18)年、美保海軍航空基地として開設された。戦後は英軍・米軍に接収され、現在は航空自衛隊との共用飛行場となっている。
米子空港の立地は、かなり特徴的だ。日本海と中海を隔てる、弓ヶ浜半島の中心部に横たわるように位置している。鳥取県西部の中心都市である米子市と、港町として栄える境港市の間に位置し、空港所在地も2市にまたがっている。島根県の県庁所在地である松江市からもほど近い。
共用空港ということもあり、全日空の東京(羽田)便6往復(コロナ禍により一部運休あり)が運航するのみと、路線数・便数ともにかなり寂しい。香港線、上海線も就航していたが、現在は運休中だ。
今回は、米子空港からJR境線の米子空港駅まで歩いてみた。以前にリポートした【山口宇部空港】と同様に、至近距離に駅がある。「歩いてみた」というほどの距離ではないのだが、なかなか興味深いルートだった。
米子空港からJR境線・米子空港駅まで、わずか250mを歩いてみた
米子空港のターミナルビルは、1階がチェックインカウンターと到着ロビー、2階が出発ロビーとショップ、3階が送迎デッキという、実にオーソドックスなつくり。地方の空港はどこへ行ってもこの構成ばかりなのだが、別に奇抜なレイアウトにする必要もないから、これでいいのだろう。
このターミナルが完成したのは1980年で、地方空港のなかではやや古いほうだ。しかし、内部はそんな古くささをまったく感じさせない。至るところに『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターがいるのは「鬼太郎空港」ならではだろう。
もともと、この空港に「鬼太郎」のサブネームが付いた理由は、境港市が作者の水木しげるさんの出身地であるため。市の中心部には水木しげるロードや水木しげる記念館があり「妖怪のまち」をアピールしている。
ターミナルビルを出ると、正面にはおなじみの巨大駐車場が広がっているのだが、右手を見るとまっすぐに歩道が伸びている。「JR米子空港駅」という表示があり、キャリーケースを転がしながら歩いている人もちらほら見かけた。
屋根のある歩道を200mほど歩くと、歩道橋が出てくる。交通量の多い4車線の道路を渡り、歩道橋を下りたところに、JR米子空港駅があった。距離はわずかに250m、所要時間は5分もかからなかった。
駅自体は、待合室と短めのホームが1線あるだけの実に小規模な無人駅。自動券売機はあるが、交通系ICの改札機はない。もっとも列車に車載型のIC改札機があるので、ICOCAやSuicaなどは利用可能だ。
空港滑走路の伸延のため、JR路線のほうを移転させるという“裏ワザ”
このJR米子空港駅は、もともとは大篠津駅として1902(明治35)年に開業した。空港が美保海軍航空基地として開設されたのが1943(昭和18)年なので、その40年以上前になる。境線は山陰地方で最初に開通した路線で、境港から資材を搬入するために作られた。
当時の鉄道は建設資材運搬のため、港から作られていくことが多かった。東海道本線建設のための武豊線(愛知県)や、北陸本線のための敦賀港支線(福井県)など、同様の例は全国で見られる。
空港は線路の邪魔にならないよう、西側に作られたのだが、次第に問題が生じてくる。旧軍時代からの滑走路は1200mだったが、航空機の大型化やジェット化に伴い、延伸の必要性が出てきた。そこで1973年に東西方向の滑走路とクロスする形で、東北東・西南西方向の1500mの滑走路が新たに建設された。1996年には、2000mに延長されている。
2000年代には大型機の就航のため、滑走路の再延長(2500m化)が決定された。しかし、西の中海方面への延伸は不可能で、東側は境線が障害となる。そこで、東側に境線の線路を半円状に迂回するという奥の手が使われた。駅はこの迂回部分に位置していたため、800mほど北側に移転。そのため、ターミナルビルからわずか250mの位置となった。その際に、駅名も現在の米子空港駅に変更されている。
大篠津駅時代も徒歩で向かうことはできたが、現在は名実ともに空港へのアクセス拠点となったJR米子空港駅。米子駅へは240円、境港駅へは190円と価格もリーズナブルだ。空港のアクセス駅として、建設の経緯は異例だが、立地としては理想的。鳥取県西部・島根県東部へ向かう際は、是非この利便性を体感してほしい。
(文=渡瀬基樹)