1978年、渋谷でわずか6坪17席の小さなレストランからスタートしたイタリア料理チェーン店「カプリチョーザ」は、2018年の今年40周年を迎えた。2018年8月現在、日本全国で119店舗。それだけでなく、海外でもその味を楽しむことができる。よく食べに行っているという人もいるのではないだろうか。
なぜ、カプリチョーザは長く愛され続けているのか。そして、創業者であり、「厨房のマジシャン」本多征昭氏は、どのような人物だったのか。
『カプリチョーザ愛され続ける味』(神山典士著、本多惠子監修、プレジデント社刊)は、日本のイタリア料理に革命を起こした元祖「大盛」イタリアン創業シェフ・本多征昭の人生とイタリアンレストラン「カプリチョーザ」が愛され続ける秘密を追いかけた一冊だ。
1944年、札幌郊外の当別町で生まれた本多征昭は、18歳の頃に「将来イタリアに行って料理人になりたい」と両親に宣言。1960年大初頭には、住み慣れた札幌の街を後にして、一人イタリアに向かい、ローマにある国立エナルク料理学校で腕を磨いた。
本多は日本人学生として2人目だったという。当時のエナルクのコンセプトは、学生が作った料理をお客様に提供し、ホテルとレストランを営業しながら学ぶことで、超実践形式でイタリア料理の本場の技術を会得するというプロユースの学校だったのだ。
エナルクで修行をした本多は、その努力が認められ、1970年に開催された大阪万博イタリア館のコックとして凱旋帰国。その後、レストランを回る生活を経て、ある投資家に引き抜かれ、銀座で雇われシェフとして働いた後、1978年に34歳でオーナシェフとしてカプリチョーザを創業した。
本場の技術、本場の味を手頃な価格、ボリュームたっぷりで提供するスタイルは、青山学院大学の学生や大学、高校の運動部員、プロスポーツ選手や芸能人たちが常連となり、行列のできる美味しい店として繁盛する。
そんなカプリチョーザがチェーン展開に乗り出したのは1985年のこと。その頃はまだ「フランチャイズ」「チェーン店」という言葉は一般的ではなく、本多はチェーン展開に乗り気ではなかったという。しかし、レストランチェーンを運営するWDIが少しずつ交渉を進め、本多の心を開いていったという。しかし、チェーン展開をするにあたり、その他にもさまざまな壁があったようだ。
それから間もなくの1987年、本多は肺ガンを宣告され、翌年7月21日に息を引き取る。本多亡き後もカプリチョーザは順調に出店を続けており、本多の生み出した味は、今でもなお、多くの人に愛されている。
本多の母であるフテさんも商店を経営してきたが、そんなフテさんの商売の鉄則が「損して得とれ」だ。本多の大盛りのスタイルもこの精神から生まれたという。「損して得とれ」の精神で本多もお店を大きくしていった。
本多征昭の短くも濃い人生を追うことで、カプリチョーザの人気の秘密がわかるはずだ。
(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。