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メガバンクの“異質な”人事、どう決まる?派閥抗争、旧行意識…三菱UFJ会長退任にみる

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三菱東京UFJ銀行の店舗(「Wikipedia」より/っ)
 昨年放送された連続テレビドラマ『半沢直樹』(TBS)の大ヒットを受け、メガバンクの体質の特殊性について人々の関心が高まったが、今回は三菱UFJフィナンシャル・グループ(FG)を事例にして、「メガバンクの人事の実態」に迫ってみよう。

 6月下旬、三菱UFJ FGの沖原隆宗会長が退任する。沖原氏の後任には沖原氏と同じく旧UFJ銀行出身の園潔・三菱東京UFJ銀行副頭取が就き、銀行の副会長も兼務する。沖原氏は大手銀行が不良債権問題に苦しんでいた2004年に52歳という若さで旧UFJ銀の頭取に就任したが、06年、旧東京三菱銀行により実質的に吸収合併されたため、旧UFJ銀の最後の頭取となった。

 06年に三菱東京UFJ銀が発足して以来、沖原氏は法人部門のトップや副会長を歴任したが、金融界では「強運な人」として知られている。10年2月25日に三菱UFJ FGが発表した11年度の首脳人事で、畔柳信雄社長は4月1日付で退き、後任には銀行の永易克典頭取が就任した(永易氏は現在、同行会長)。銀行頭取が持ち株会社のFG社長を兼ねる体制に戻し、銀行経営とグループ戦略の指揮系統を一本化した。2人とも旧東京三菱銀出身者であり旧東京三菱銀主導の体制を維持することになる、という至極順当な社長交代人事であった。サプライズの声が上がったのは会長人事のほうだった。FGの玉越良介会長は6月に退任し、後任には同じ旧UFJ銀出身の沖原氏が就任すると発表された。FGは6月29日、東京・千代田区丸の内公園の日本武道館で第5期定時株主総会を開催。総会の承認を得て、沖原氏の会長が正式に決まったが、その強運ぶりが金融界に驚きを与えたのだ。

 沖原氏は1974年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、旧三和銀に入行した。東京・新宿区の大久保支店を振り出しに、もっぱら法人営業畑を歩いてきた。最初の強運は、88年に渡邊滉頭取の秘書役代理に抜擢されたことである。渡邊氏は、米国ホワイトハウスの大統領補佐官にならった頭取補佐官制度を導入。7人の秘書役に若手幹部を登用し、大きな権限を与え、彼らは「七奉行」と呼ばれた、これら補佐官たちは行内で絶大な権力を振るったが、その1人が沖原氏だった。94年以後、佐伯尚孝頭取体制になり、渡邊派の沖原氏は浅草支店長に飛ばされた。その後、東京営業本部第三部長に戻され、01年に執行役員に就任したが、佐伯頭取体制が続く限り、窓際の傍流でしかなかった。

●運や金融庁の意向も左右

 02年に旧三和銀は旧東海銀と合併し、旧UFJ銀が誕生。旧三和銀が主導権を握り、初代頭取に佐伯派の流れをくむ寺西正司氏が就任したが、04年5月、金融庁検査で組織的に不良債権の隠蔽工作をしていたことが発覚し、寺西頭取は辞任に追い込まれた。この時に、最年少で旧UFJ銀の頭取に就任したのが沖原氏だ。旧佐伯派の流れをくむ主流派は当初、寺西頭取の側近の川西孝雄専務を後任に据えようとしたが、金融庁がこの人事を拒否した。金融庁は寺西派を一掃するために、寺西政権で蚊帳の外に置かれていた沖原氏を頭取に推した。こうして沖原氏は常務執行役員からいきなり頭取に昇格した。

 沖原氏は歴代頭取にならって側近政治を踏襲し、旧三和銀出身の部下たちを秘書役に据えた。この側近たちは四人組と呼ばれた。側近政治が諸悪の根源だと認識していた金融庁は、沖原氏のこの人事案にノーを突きつけた。中でも寺西頭取の懐刀として“影の頭取”とささやかれるほど権勢を振るっていた松本靖彦常務が、沖原頭取体制の中枢にとどまっていることが、金融庁の逆鱗に触れた。四人組は解体、松本常務は退任に追い込まれた。金融庁の圧力に屈した沖原頭取は、旧三菱東京銀との合併を受け入れた。