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年下の従業員はたった3人……32歳で突然社長になった2代目が会社を立て直せた理由

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※画像:『町工場の娘』(諏訪貴子/著、日経BP社/刊)

 2012年12月、雑誌『日経ウーマン』が、各界で最も活躍した働く女性に贈る「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013」に選んだのは、主婦から町工場の社長になり、経営難に直面していた町工場を立て直した1人の女性だった。

 『町工場の娘』(諏訪貴子/著、日経BP社/刊)は、町工場を営む家の次女として生まれ、突然、主婦から先代の跡を継ぐことになった女性経営者の奮闘記だ。

 「お父さまは急性骨髄性白血病を発症しました。余命はあと4日ほどと思います」。駆けつけた病院で諏訪さんが医師から聞いた言葉だった。そして、2004年4月。会社で体調を崩したダイヤ精機社長の諏訪保雄氏は、緊急入院からわずか4日後、亡くなってしまう。

 貴子さんの父である保雄さんは、ものづくりの町、東京都大田区でダイヤ精機という社員30人弱の町工場を経営していた。

 東京オリンピックが開催された1964年、保雄さんがダイヤ精機を創業。起業のきっかけは当時3歳だった長男だった。わずか3歳で白血病を発症してしまい、高い治療費を捻出するため、サラリーマンだった保雄さんはダイヤ精機を創業した。つくれば売れる高度経済成長期の真っただ中、ものづくりはお金を稼ぐ手っ取り早い手段だったという。しかし、病魔に打ち勝つことはできず、67年、長男は6歳で他界してしまう。

 目標を失い、会社を畳むことも考えた保雄さんだったが、「ダイヤ精機の後継者が欲しい」という新たな目標が芽生える。長男の1歳上に第一子がいたが、それは女の子。保雄氏は長男の生まれ変わりで、会社を継ぐ2代目となる男の子が欲しくなったのだ。

 そんな期待の中、1971年に生まれたのが本書の著者である貴子さんだ。ごく小さな頃から「あなたはお兄ちゃんの代わりよ」と言われて育ち、女の子といるより、男の子といる時間の方が長く、電車や戦隊グッズ、プラモデルに熱中して幼少時代を過ごした。

 直接的な2代目修行や「後継者になれ」といった言葉はかけられなかったが、大学受験は「工学部以外には行かせない」と保雄さんから言われ、成蹊大学工学部工業学科に進学。就職活動がうまくいかなかったときは、「取引先の会社が役員秘書を募集しているぞ」と保雄さんから言われ、渡りに船とばかりに入社試験を受け、入社。ところが、集舎後の配属先は工機部初の女性エンジニア採用だった。保雄さんが、実践的に2代目修行ができる職場を選び、送り込んだのだった。

 入社2年後、97年に結婚を機に退社。専業主婦となり、翌年男の子を出産。ブライダル司会のアルバイトを始める。2004年までの間にダイヤ精機に2度入社し、2度リストラに合うという紆余曲折もあったが、2004年3月、夫の米国赴任が決まり、家族で渡米することに決まっていた。そんな最中、保雄さんは突然、亡くなってしまう。

 そして、2代目社長として白羽の矢がたったのが、貴子さんだった。当時32歳。27人いた社員のうち、貴子さんより年下は3人しかいなかった。

 バブル崩壊の余波もあり、赤字経営が続く町工場の舵取りをいきなり任された貴子さんが、どのように会社を再生させたのか。1人の主婦が社長に就任して10年間の物語は元気や勇気をもらえるだろう。

 東京都大田区は町工場の町として有名だが、現状は工場数の減少が止まらない。ダイヤ精機の10年間の取り組みは、中小企業が生き残るためのヒントにもなるはずだ。
(新刊JP編集部)

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※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。