本連載では前回まで、全身の健康は口の健康が支え、その口の健康をつかさどる咀嚼システムの獲得において最も大切なのが、かみ合わせから脳にもたらされる感覚情報だということをみてきました。
口の進化
「人間の祖先は?」という問いには、大多数の人が「猿」と答えるでしょう。では、「猿の祖先は?」と聞かれたらどうでしょう。始まりは単細胞生物ですが、祖先という意味合いからとらえれば、「魚」から本格的な進化の過程が始まったといえるのではないのでしょうか。
簡単にまとめると次のようになります。
【単細胞生物→クラゲ類→魚類→両生類→爬虫類→哺乳類→類人猿→人間】
魚は、口、頭、目、えらが身体の先端に存在しており、そのなかでも身体サイズからすれば口はかなりの大きさを占めます。そのえら呼吸と捕食・摂食をするための口を働かせる一番重要な筋肉群がその先端部分の口・えらの周りに集中していました。その集中していた筋肉群は進化の過程を経て、現在の人間の体では全身に広く分布しています。
つまり、口に生じた不具合は由来を同じくする筋肉を伝わって、たとえば口のストレスが痔を悪化させるといったような、遠隔な器官に影響を与えることもあるのではないでしょうか。
歯科治療が怖いわけ
進化の始まりは海の中からですが、大変な苦労がありました。それは海水から淡水を経て陸上に上がるには、浸透圧の差を克服しなければならなかったからです。
海で釣った生きた魚を真水の水槽に入れれば死んでしまいます。これは塩分の高い海水の中で浸透圧のバランスを取っていた生物がそのまま淡水に入れば体液のバランスを崩してしまうためです。
そこで浸透圧の差から身を守るため、カブトガニのような鎧をまとった生物が現れ、淡水を克服して両生類へと進化したという説があります。この命を守る鎧をアスピディンといい、現在の人体では歯の象牙質にも分布しているといわれています。
歯科治療では、虫歯治療などでこの象牙質をドリルで削ることがよくあります。治療に必要なこととはいえ、いわば命を守っていた鎧に穴を開けて壊してしまう行為にほかなりません。また、歯の一番表層にあるエナメル質から次の象牙質の層に達する境目をエナメル象牙境といい、ドリルで削ったときにその部位が一番痛みを感じるとされています。
そのため、象牙質を削られるという行為に対し、命を危険にさらされるような恐怖を感じ、ドリルの音を聞くだけで身がすくんでしまうという説もあながち荒唐無稽とはいいきれないでしょう。
(文=林晋哉/歯科医師)