資生堂は13年3月期の通期見通しを下方修正した。昨年10月に続いて2回目だ。売上高は前回予想の7000億円から6800億円へ。営業利益は400億円から245億円に大幅に引き下げた。期首の見通しから売上高は300億円、営業利益は190億円下振れした。
下方修正の原因は中国事業が失速したことだ。2ケタ成長が続いていた中国事業が12年7~9月期以降、反日感情の高まりで2ケタ減と落ち込んだ。期首に1000億円超と10%台の成長を見込んだ中国事業の売上高は、前期(891億円)並みの確保がやっとだ。
尖閣諸島(沖縄県)の国有化に伴う日中関係の悪化で、12年9月に中国各地で起きた反日騒乱デモの影響が業績を直撃した。反日デモの発生当初、100店以上の百貨店売り場を数日間休業した。1000店を超える現地の化粧品の専門店の売り上げも大きく落ち込んだ。店頭でのプロモーションを行えないことから、専門店の売り上げの回復は鈍い。14年3月期も中国の事業は「上期は減収。下期は持ち直すと期待しているが、通期で横ばい」と予測している。本格回復にほど遠い。
大手証券会社の化粧品・トイレタリー業界担当のアナリストは「資生堂イコール日本(企業)というイメージが強く、ブランドが数多くある資生堂は主力のブランドを前面に出した売り方ができにくい」と分析する。
反日デモの影響は株価にも及んだ。昨年10月11日の東京株式市場で資生堂の株価は1000円の大台を割って938円まで下げた。1000円を下回るのは1995年以来17年ぶりのことだ。今年2月には1200円まで戻したが、反日デモ以前の1400円台には届かない。中国での売り上げの回復は容易ではないとみられているからだろう。
資生堂が中国に進出したのは、文化大革命から改革開放政策に転じて間もない1981年。当時、中国に滞在する外国人に対して、ホテル内で化粧品や石けんなどを輸入して販売していた。
91年、北京に合弁会社を設立。中国専用ブランドのオプレを発売。98年には上海に合弁会社を設立、オプレより安い価格帯のジーユーを売り出した。06年には化粧品専門店向けのブランド、ウララを投入した。
中国市場に着実に足場を築いてきた資生堂が、大攻勢をかけたのは10年から。ライバルの仏ロレアルが先行していた薬局チャンネルを開拓するため、新しいブランドを投入して追撃を開始した。
「17年には、アジアを代表するグローバルプレーヤーになる」
08年に策定した中期経営計画で、前田新造社長(当時)はこうぶち上げた。
日本の化粧人口は5600万人。少子高齢化で、どんどん減っていく。一方、中国の化粧人口は6000万人程度ですでに日本を上回っていたが、中間層が増え続けるので20年には4億人に達するとの予測がある。資生堂は中国を成長戦略の柱に据えた。
前田・現会長の後継者となった末川久幸社長は17年3月期までの中期経営計画で、「売上高1兆円、海外売上50%超」を目標に掲げた。この目標を牽引するのが中国市場のはずだった。事実、国内ではマイナス成長だが、中国では2ケタ増が続いていた。12年3月期には、売上高6824億円のうち海外売り上げが3024億円と44.3%を占めた。中国を含むアジア・オセアニアで1297億円を売り上げるまでになった。
今期も2ケタ増を見込んでいたところを直撃したのが反日デモだった。中期経営計画も4月をメドに見直す予定。成長のエンジンと位置付けてきた中国事業の比重が下がるのは必至の情勢だ。現在年商400億円と中国の半分以下の東南アジアに、軸足を移すことになろう。
資生堂は国内での化粧品の売り上げが落ち込むなか、中国市場へと急傾斜していった。だが、その代償は小さくなかった。国内の主要生産拠点である鎌倉工場(神奈川県鎌倉市)や横浜市内の研究施設を閉鎖し、早期退職優遇制度を拡充するなどリストラ策を打ち出した。舞鶴工場と板橋工場を閉鎖した05~06年以来の本格的なリストラとなる。