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資生堂の創業者・福原有信(幼名金太郎)は、服部時計店の服部金太郎、てんぷらの天金を開いた池田金太郎とともに「銀座をつくった3人の金太郎」といわれた。有信が現在の銀座に日本初の洋風調剤薬局「資生堂」を開いたのは1872(明治5)年。明治新政府が西洋文明受け入れのためのモデル地区として、銀座の開発に力を入れていた頃だ。銀座は煉瓦づくりの洋館が並び、夕暮れ時ともなるとガス灯がともるおしゃれな街に生まれ変わった。1872年には新橋~横浜間に鉄道が走りだした。
店名の資生堂は、易経の「万物資生」から名付けた。「万物はここから生まれている」という意味だ。資生堂は銀座の地から、化粧品やファッション関連商品の代表的ブランドを生み出した。
東京人にとって資生堂は化粧品のトップメーカーというより、銀座を象徴するハイカラな存在だった。情報が銀座から発信されると、それがギンザ・モードとなり、流行の最先端となった。情報の発信で資生堂が果たした役割は大きかった。
資生堂には、創業者である福原有信氏の一族が社長を継ぐという決まりはない。福原信三(資生堂初代社長)、福原信和(7代目社長)、福原義春(10代目社長)など一族が社長を務めているが、一族に多趣味な人が多いというのが福原家の特徴である。現在名誉会長の福原義春氏は、経営者というよりも洋蘭の栽培家としてつとに有名だ。社内からは「引退しているとはいえ、創業家として隠然たる影響力を行使してきた福原名誉会長ら創業者一族に(経営を傾かせた)責任はないのか」という声が上がる。
中国という成長の柱を失う資生堂は、大きな経営の岐路に立たされている。
(文=編集部)
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