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新1万円札の顔・渋沢栄一、みずほ銀行や一橋大学をつくっても、渋沢財閥をつくらなかった理由

文=編集部
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新1万円札の顔・渋沢栄一、みずほ銀行や一橋大学をつくっても、渋沢財閥をつくらなかった理由の画像1発表された新紙幣の1万円札(写真:毎日新聞社/アフロ)

 政府は5年後をめどに、1万円札、5000円札、1000円札の紙幣のデザインを一新する。1万円札は、40年ぶりに福沢諭吉から「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一に主役が交代する。

 東京都中央区日本橋兜町は、東京証券取引所など金融・証券関連企業がひしめく日本の金融の中心地だ。その一角、現在のみずほ銀行兜町支店の外壁に「銀行発祥の地」と銘打つプレートがはめ込まれている。日本初の銀行である第一国立銀行が設立された地だ。渋沢は第一国立銀行(現みずほ銀行)や事業会社など約500社の設立や経営に関与した。

 渋沢は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市の養蚕を営む豪農の家に生まれた。若くして尊皇攘夷運動に加わる。横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てたが、従兄弟の諌止によって未遂に終わった。

 渋沢は京都に逃れ、一橋家の用人の斡旋で一橋家の家臣となる。年貢米や木綿の販路を開拓。藩札の整理など一橋家の財政の改革で実力を発揮。一橋慶喜(よしのぶ)の信用を得て、仕官2年後に同家の財政を担当する御勘定組頭となる。異例の大抜擢であった。

 1866(慶応2)年、一橋慶喜は15代将軍となり、渋沢も幕臣となる。しかし、倒幕運動に参加したことがあったことから、幕臣であることに煩悶。身を退く決意をする。

 またしても人生の転機が訪れる。27歳のとき、パリで開かれる万国博覧会の幕府使節として将軍・慶喜の弟、徳川昭武(あきたけ)に随行するよう命じられた。御勘定を担当する随員だった。

 1867(慶応3)年、横浜を出発した一行は、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギーなどを巡歴した。フランスへ向かう途中、列強の植民地となったアジア各地を船で巡りながら、スエズ運河の開削工事を見た渋沢は衝撃を受けた。国家の規模をはるかに超えた大事業をどうやってなしとげるのかについて考えた。

 解答は近代ヨーロッパの経済を成り立たせている、あるシステムにあった。それは銀行のシステムだ。銀行が個人から資金を集め、それをまとめて貸し出すことで、新しい会社の事業の資金となる。貸し出し(融資)から得られる利益によって、さらなる大規模事業への出資が可能になり、その利益が人々に還元される。このことをフランスで学んだ渋沢は、この仕組みを「合本主義」と名付けた。

BusinessJournal編集部

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