三菱財閥・岩崎弥太郎との死闘
小さな資本を集めて大資本にする、すなわち合本主義が、渋沢が渡欧中に学んだ最大の知恵であった。合本主義、現在の株式会社を設立するオルガナイザーとして活躍したことが、渋沢の事跡のなかで特筆される。
渋沢と三菱の創始者、岩崎弥太郎の経営哲学の違いを示す有名なエピソードが残っている。1878(明治11)年8月、隅田川の屋形船での舟遊びした時のことだ。渋沢38歳、岩崎43歳であった。
岩崎は渋沢に、一緒に手を組まないかと持ちかけた。だが、渋沢が岩崎の経営思想を批判したことから口論となった。
渋沢は、三菱の社規は「会社ノ体ヲナストイエドモ、ソノ実マッタク一家ノ家業」と鋭く指摘した。岩崎は会社組織のかたちをとりながら、実質的にそれを否定していた。渋沢は合本主義、経済道徳合一主義を唱えていたから、「会社ノ利益ハマッタク社長ノ一身ニ止マルベシ」という岩崎の思想に我慢がならなかったのである。
岩崎は「一家の事業ではなぜいかん。合本主義とはなんだ。人間をだめにする思想ではないか」と反駁し、会談は物別れで終わった。この後、勃発する2人の“ビジネス戦争”の前哨戦ともいえる出来事だった。
1931(昭和6)年11月、渋沢は91歳の生涯を閉じた。渋沢は三菱のような巨大財閥をつくることもできたが、合本主義を日本に広めることを使命とし、“渋沢財閥”はつくらなかった。
その代わりに「日本の資本主義の父」と尊敬され、新1万円札に肖像が描かれることになった。
福沢諭吉との接点
現在の1万円札の“主人公”である福沢諭吉と渋沢が将棋を指したことがある。諭吉はこの時、「(渋沢は)商売人としては割合強い」と辛辣な批評をした。すると渋沢は「(諭吉は)ヘボ学者にしては強い」と返した。
4月10日付毎日新聞の「余禄」はこう伝え、さらに「この2人の間の1万円札の代替わり、キャッシュレス時代にどんな様相を見せるのか」と結んでいる。
(文=編集部)