最初のビジネスは第一国立銀行への関与
1868(慶応4)年、幕府は瓦解。王政復古の知らせを受けて渋沢は急遽、帰国する。翌69年、まず静岡で金融と商社機能を持つ、「商法会所」という、今でいうところの「会社」を立ち上げた。
同年、大隈重信大蔵大丞に招かれ、大蔵省に出仕して租税正となる。71年、大隈が参議となり、井上馨が入れ替わって大蔵大丞となる。渋沢は井上とタッグを組み、貨幣・金融・財政制度の改革にあたる。近代貨幣制度の発足にかかわったということだ。
国立銀行条例の制定、合本企業制度は、いずれも渋沢の発案によるものだ。
1873(明治6)年、予算編成をめぐって大久保利通と対立、渋沢は井上とともに大蔵省を辞し、野に下った。
官を辞した渋沢の最初の仕事は、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行への関与だった。第一国立銀行は渋沢が退官した73年に、三井組と小野組の共同出資で設立され、渋沢は総監役についた。しかし、三井組・小野組の両組の折り合いが悪く、75年に渋沢が頭取となり、これ以降、同行に君臨。同行は「合本主義」を推進する経済活動の母胎となった。
渋沢は次々と多くの会社を設立する。抄紙会社(現・王子製紙、日本製紙)、東京株式取引所(現・日本取引所)、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、大阪紡績(現・東洋紡)、東京瓦斯(現・東京ガス)、ジャパン・ブルワリー(現・キリンビール)、有限責任東京ホテル会社(現・帝国ホテル)、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)、明治製糖(現・大日本明治製糖)、田園都市(現・東京急行電鉄、東急不動産)など、枚挙にいとまがない。そんな渋沢が唯一、自分の名前を冠したのが澁澤倉庫(現在も澁澤倉庫)。生涯に関係した会社は500社を超えるといわれている。
同時に東京慈恵会医院・東京慈恵会(現・東京慈恵会医科大学・学校法人慈恵大学)、日本赤十字社などの社会事業、商法講習所(現・一橋大学)や日本女子大学など教育機関の立ち上げにもかかわった。