実感なき景気回復の裏づけとされる実質賃金の低下
これまでの日本経済は、景気回復が続いてきた。GDP統計によれば、日本経済は2012年から2018年まで7年連続でプラス成長を続けてきた。また、失業率は2017年に23年ぶりに3%を下回り、雇用情勢も好転してきた。しかし、実質賃金の低下を理由に、このような景気回復を体感温度の上昇として実感できた人は、必ずしも多くないとする向きもある。
ただ、実質賃金の基となる名目賃金が総人件費を常用労働者数で割って算出されることからすれば、実質賃金が低下傾向にある背景には、常用労働者の増加というマクロ経済的に評価できる側面もあると考えられる。
そこで今回は、15歳以上人口で割って算出した実質賃金を名目賃金と物価上昇率から試算し、今後の政策対応について考えてみたい。
原因は物価の上昇と雇用者数の増加
過去3回の景気循環を見ると、日本の景気が回復したのは、(1)2002年2月~2008年2月、(2)2009年4月~2012年3月、(3)2012年12月~の3回となる。
今回の特徴としては、極端な円高・株安の是正と世界経済の拡大により需要が拡大して労働需給が逼迫し、それに従って雇用が大きく増えた。そして、名目賃金が増加していることや物価が上昇していることが、これまでと異なる点である。常用雇用者数で見れば、今回の局面では過去2回の回復局面をかなり上回るかたちで増加している。名目賃金が大幅に増加しているのもうなずける。しかし、実質賃金が大きく水準を下げている。
この背景には、以下の2つがある。
(1)消費増税等により消費者物価が上昇しており、名目賃金の増加が購買力の増加に十分に結びついていない。
(2)増加した雇用者の中身を見ると、賃金が低い女性や高齢者の増加が目立つ。
実際、消費者物価が消費増税以降急激に水準を上げる一方で、実質賃金は過去2回の回復局面と比べて明らかに水準が低い。消費増税による家計の圧迫、労働参加率の上昇等の構造的な問題が重石となり、実質賃金の上昇が阻害されていると考えられる。
このように、名目賃金の上昇以上に物価が上昇していること、女性や高齢者の労働参加が進んでいること等が実質賃金低下の原因となっている。
より実感に近いのは15歳以上人口ベースの賃金
しかし、実質賃金の低下の判断には注意が必要だ。実質賃金を判断する場合、一人当たり賃金で計る場合と、総賃金で計る場合では、評価も変わってくる可能性が高い。
実質賃金とは、企業従業員に支払っている総人件費と従業員数に着目し、総人件費を従業員数で割って名目賃金を計測し、それを消費者物価で除して平均的な従業員の購買力を計る。ただ、実質賃金の元になる名目賃金では、景気が良くなり失業者が職につけるようになると平均賃金を押し下げる要因となり、マクロ経済的に新たに就業者が増えるというプラスの要素が評価されない。また、景気が悪くなり平均賃金が低い労働者が職を失えば、マクロ経済的には悪いことだが、名目賃金の押し上げに作用してしまう。
実際の景気を実感するのは、新たに職についた就業者であり、職を失った失業者であろう。従って、すでに働いている従業員ではなく、労働力とされる15歳以上の人口に着目し、15歳以上人口一人当たりの賃金が計測できれば、より人々の実感に近い実質賃金となる。
特に、家計全体の購買力を判断するには「総賃金」が重要であり、総賃金を15歳以上の人口で割って計測される一人当たり賃金では、働いていない人も含まれるため、その人が収入を得ることになればプラスに作用する。
これを、夫が月収50万円の片働きから妻が月収10万円の共働きに変わった家庭に例えれば、既存の一人当たり賃金の計算では50万円から(50+10)/2=30万円に下がることになるが、15歳以上人口一人当たりの賃金では50/2=25万円から(50+10)/2=30万円に上昇することになる。従って、働いていない人も含めた一人当たり賃金を計測することは非常に重要といえよう。
15歳以上人口平均賃金はアベノミクス以降+6%上昇
そこで、実際に15歳以上人口一人当たりの実質賃金を計測してみた。推計方法は以下のとおりである。企業の総人件費の動きを説明する変数として、ここでは毎月勤労統計の名目賃金指数×常用雇用者数を用いた。15歳以上人口一人当たりの賃金は、これを総務省の15歳以上人口で割ったものと考えられる。そこで、これを帰属家賃除く消費者物価で除して、15歳以上人口一人当たりの実質賃金を作成しなおした。
次項・下図は、総人件費を労働者数で割ってつくられた既存の実質賃金、総人件費を15歳以上人口で割って作成した修正版実質賃金を時系列で比較したものである。アベノミクス以降の局面をこの2つの基準で見てみると、既存の実質賃金で見れば確かにアベノミクス以前よりも水準を下げていることになるが、15歳以上人口一人当たりの修正版実質賃金は2015年以降上昇に転じていることがわかる。これは、新たに職についた労働者の収入増を加味すれば、平均的な労働者の実質的な購買力が上がっていることを意味している。
また前年比で見れば、確かに既存の実質賃金も前年比でプラスになった年もあるが、修正版実質賃金は2015年以降持続的に増加していることがわかる。そして何より、既存と修正版の実質賃金の格差が拡大していることが重要だ。つまり、15歳以上人口で計った修正版実質賃金は明確に増加しており、既存の労働者ベースの実質賃金の動きのみで判断すると、人々の実質購買力を過小評価してしまうことになる。
このように、既存の労働者ベースの実質賃金が従業員の景気実感を反映しない背景には、マクロ経済的にプラスとされる常用雇用者数の増加が実質賃金の下押しに作用してしまうことがある。こうしたマクロ経済全体を表さない経済指標を基に経済状況を判断しようとすると、経済政策の判断を誤る可能性があり、多くの国民が経済成長の恩恵を受けられなくなる可能性がある。常用雇用が増加する局面での実質賃金低下に左右されることなく、総賃金を持続的に増加させ、家計全体の購買力を高める政策が必要だ。