
政府が、黒川弘務・東京高検検事長の定年を延長させた人事が議論を呼んでいる。検事の定年は63歳だが、これを半年延長することで、安倍政権は黒川氏を次期検事総長(定年は65歳)に就任させるつもりではないか、との推測が飛び交う。
私は、黒川氏とはほんの少しだけ接点があった。それは、厚生労働省の局長だった村木厚子さんが冤罪に巻き込まれた郵便不正事件で、大阪地検特捜部の主任検事が証拠の改ざんを行い、幹部がそれを隠蔽していたことが発覚した後の2010年11月のこと。法務大臣の下に、今後の検察について議論する「検察の在り方検討会議」ができ、私は委員のひとりとなり、黒川氏は事務局のトップを務めた。
「官邸の番犬」評への違和感
検察への信頼は地に落ちていた。取り調べの録音録画の義務づけなどのほか、特捜検察の廃止など抜本的な組織改革を求める声もあり、法務・検察は最大の難局を迎えていた。そんな時、大臣官房審議官から松山地検検事正に異動して2カ月にしかならない黒川氏が、大臣官房付として呼び戻され、検察官らに加え、学者や弁護士を含めた事務局をまとめるトップに据えられたところに、その有能さへの期待がうかがえた。
当時は民主党政権である。この会議の座長は、前法務大臣(当時)の千葉景子氏が務めた。その千葉氏を、黒川氏が常に寄り添うようにして補佐している姿は、今も強く印象に残っている。千葉氏も、何かと黒川氏を呼び寄せて相談するなど、その信頼の厚さは、傍目にもよくわかった。愛煙家の千葉氏のために、タイミングを見計らって会議場から外に連れ出すなど、黒川氏のきめ細やかな気配りには、舌を巻いた覚えがある。
だから今、黒川氏が「官邸の番犬」「安倍政権べったり」と罵倒されているのを見ると、いささか気の毒な気がする。おそらく彼は、現政権に限らず、その時々に所属する組織と仕えるべき(と彼が考える)相手に尽くし、期待に応える仕事ぶりで上司を満足させる、忠実なる能吏タイプなのだと思う。
私たち委員が検察にどんな批判的な意見を述べても、愛想良く話を合わせられる人でもあった。「在り方会議」には、捜査や検察の抜本的な改革を強く主張する者から、取り調べの録音録画にも後ろ向きな警察官僚出身者までいるなか、最後まで誰も離脱させずに、なんとか提言書をまとめたのだから、仕事を任せた側からすれば実に頼もしい官僚だろう。
一部メディアは、黒川氏が壁になったために、特捜検察が政治家の事件を立件できなかったという“恨み節”を伝え、今回の人事でIR汚職などの捜査の動きが一気に鈍るという予想も伝えている。
私は、それについてコメントする材料は持ち合わせていない。ただ、これを機に、匿名の特捜検察サイドの主張を安易に肯定する論調が勢いづいているのは、かなり気になる。
というのは、最近の特捜検察(特に東京地検特捜部)は、郵便不正事件前に戻ったかのように、権力を自在に行使し、その存在感を誇示する“イケイケ路線”が目につくからだ。
たとえば2017年に着手された、JR東海のリニア中央新幹線の発注に絡む談合事件。裁判を傍聴していると、JRの調達の仕方にも大いに問題があったのに、検察はそうした事情は一切捨象し、物事を単純化したうえで、無罪を主張する者を逮捕・起訴し、長期間の身柄拘束を行う一方、検察に従順な態度をとった当事者は、逮捕どころか起訴もしないという対応をとった。まったく同じ行為に関わっても、検察に従えば許してもらえるが、逆らえば犯罪者にされる。検察権力の強大さを知らしめる、ある種の見せしめが行われた事件だ。
2018年11月に着手された日産ゴーン事件では、裁判所が保釈を認めると、証拠がそろっていない別の容疑で逮捕し、起訴後に海外での証拠集めをすることになったために、裁判開始が遅れ、被告人の迅速な裁判を受ける権利が侵害されている、という指摘もある。
そうした特捜検察に対しては、冷静な論評が必要だと思う。最近のIR汚職に関しても、捜査によって中国企業が政治家に金をばらまいている実態が可視化されたのは大いに意義があったが、個々の政治家が罪に問えるかどうかは、また別問題。それについては、今後の裁判をきちんと見ていかなければなんともいえない。マスメディアは、逮捕時に大きく報じた特捜事件でも、裁判になると初公判や論告、最終弁論、判決という節目の手続きだけを取材・報道し、証人尋問や被告人質問を“スルー”する傾向がしばしば見られるが、本件ではそういうことがないように願いたい。
話が脱線しかけたが、以上のような事情で、私は匿名の特捜検察情報に基づいて論じることには慎重でありたいと考えている。黒川氏が“イケイケ路線”から煙たがられているのが事実とすれば、それは悪いことばかりではないのかもしれない。
ただ、それでも私は今回の人事には賛同できない、ということははっきりいっておかなければならない。そのいちばんの理由は、これを法の解釈変更によって強行したことだ。
恣意的な「法解釈変更」は許されない
検察庁法22条は、「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する。」と定めている。
一方、国家公務員法第81条の3は、「その職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるとき」は、最大3年の勤務延長を認めている。
この規定を使って、現政権では内閣法制局の横畠裕介次長、近藤正春次長(いずれも後に長官)や自衛隊制服組トップの河野克俊統合幕僚長の定年を延長した前例がある。
ただし、国家公務員法による定年制度は、「法律に別段の定めのある場合」は除かれる規定がある。検察庁法で「別段の定め」があるのだから、今回の人事には「違法の疑い」があると、元検察官の郷原信郎弁護士は指摘する。
実際、国家公務員の定年制度導入を論議した1981年4月28日の衆議院内閣委員会でも、政府は「検察官と大学教官につきましては、現在すでに定年が定められております」として、国家公務員法での定年制度に、検察官は含まれないと明言している。