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木村貴「経済で読み解く日本史」

誤解だらけの「元寇」…日本と元、戦争直後に貿易が空前の活況を呈した理由

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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『蒙古襲来絵詞前巻、絵七』(「Wikipedia」より/Usiwakamaru)

 今の世界では、国際的な経済関係は政治と切り離せない。

 たとえば、米中貿易摩擦だ。米国のトランプ大統領は中国について「巨大な市場障壁や手厚い国家補助、為替操作、製品ダンピング、技術移転の強制、知的財産と企業秘密の大規模な窃盗に依存する経済モデルを受け入れている」と昨年9月の国連演説で非難。中国からの輸入品に対する追加関税措置を正当化したのは、記憶に新しい。

 さらに政治の意思が鮮明なのは、経済制裁だ。米国はイランに対し、同国の核開発を理由に、エネルギーや金融を含め経済取引をほぼ全面禁止。これは事実上の戦争行為といえる。制裁には日本なども追随している。

 政治的に対立し、戦争の可能性さえある外国との商取引を国家が禁止するのは、当たり前だと思うかもしれない。しかし歴史的にみれば、それは必ずしも当然ではない。戦争によって政治的に敵対関係となった国の間でも、民間では貿易が可能だったし、事実行われていた。しかもその実例は日本にある。日元貿易だ。

戦争した敵対国と活発な民間貿易

 前回の本連載でも取り上げたように、鎌倉時代、皇帝フビライの下、中国を支配していたモンゴル帝国(元)が2度にわたり日本に来襲した。蒙古襲来(元寇)である。ところが、この元との戦争以降、日本と元との貿易(日元貿易)は空前の活況を呈する。

 日本の鎌倉幕府は、元と国交を結ばず、朝貢(貢物の献上)もしなかったが、それにもかかわらず、博多などの商人は積極的に元と交易をした。

 日本だけではない。東南アジア諸国も、次々に元と交易関係を結んだ。とくにチャンパー(ベトナム)やマジャパヒト王国(インドネシア)などは、日本と同じく元寇を受けたにもかかわらず、元との交易を望んだ。

 その理由について、こんな説明がよくされる。フビライの遠征は、もともと征服ではなく通商の拡大と交易路の確保が目的だったので、遠征後にはほとんどの地域が元とのつながりを強めたのだ、と。

 しかし、アジアの海の歴史を踏まえると、別の見方もできる。

 中国では875年の農民反乱(黄巣の乱)をきっかけに唐帝国が滅亡に向かい、国家の統制から自由になった中国商人が南シナ海に進出し、民間交易が活況を呈する。

 東アジア海域でも、9世紀に中国の民間ジャンク船(大型木造帆船)が日本にやって来て、日本人商人も中国沿岸で自由に取引するようになった。894年に遣唐使が停止されたのは、政府間の行き来がなくても、民間交易が十分に機能し、それを通じて情報も入ってきたからだ。

 唐の衰亡以来、周辺の国々は数百年にわたり、帝国の支配に入らない自由な海の繁栄を享受してきた。だから元帝国の海洋支配に対して激しく反発し、海洋の自由を守り切ったのである。神戸学院大学准教授の北村厚氏は「自由な海が守られ、フビライもそれを容認したので、彼らはもとのように自由な海で活発に交易をおこなうようになった」とみる(『教養のグローバル・ヒストリー』)。

沈没船から大量の陶磁器や銅銭

 日本には日元貿易を通じ、唐物(からもの)と呼ばれる舶来品が大量に流入し、唐物ブームが起こった。1323年6月ごろに中国の寧波を出港し、博多へ向かったジャンク船が韓国・新安郡の道徳島沖で沈没した。1975年に発見され、話題となる。積まれていたのは、1万8000点を超える陶磁器、800万枚の銅銭(28トン)、1000本余りの紫檀材、青銅杯など驚異的な量だった。

 この沈没船は長さ30メートル余りで、当時の唐船としてはとびぬけて大型船というわけでもなく、むしろ一般的な容量である。それでこれだけ多量の積載品があったということは「日元貿易全体で日本にもたらされた銅銭や陶磁器の量はいかばかりであったことか、私たちの想像をはるかに超えるものであったに違いない」と東京学芸大学名誉教授の河添房江氏は述べる(『唐物の文化史』)。

『徒然草』の作者、吉田兼好は当時の唐物ブームに冷ややかで、薬以外の唐物は不要なもの、唐船が実用にならぬ贅沢品ばかり輸送しているのは、ばかげたことだとしている。舶来品をむやみにありがたがる鎌倉末期の風潮を苦々しく思っていたらしい。この記述から、当時いかに日元貿易が盛んであり、唐物が大量に流入し、もてはやされていたか、うかがうことができる。

 海を渡って日本と元を往来したのは、物だけではない。13~14世紀には日本の多くの禅僧が中国に赴き、中国からも禅僧が渡来して文明の交流が進んだ。入元僧は二百数十人、無名の者を合わせると数百人に及んだとされる。貿易船に便乗し、多数の僧が行き来した。皇帝の国書を委ねられた元の禅僧でさえ、日本商船に便乗し、日本を訪れている。

 日本の禅僧は長期間、元に滞在し、中国的な生活様式を身につけて帰国した。その結果、書院造、作庭法、家具、精進料理、点心・飲茶などの幅広い文化が日本にもたらされ、日本固有の生活様式が大きく変化することになった。

 渡来僧としては鎌倉五山の基礎を築いた蘭渓道隆、無学祖元、京都に天龍寺を建て京都五山の基礎を築いた夢窓疎石などがあげられる。東アジアの共通語が漢字・漢文であったことから、五山僧は外交官として幕府に重用され、対外折衝にあたった。

元寇を強調しすぎた従来の日本史

 歴史学者の宮崎正勝氏は「従来の日本史では、元寇が強調されすぎるきらいがある」と指摘。そのうえで「商業が重視された元代は戦争一色の時代ではなく、むしろ日本の民間船が大挙して元に向かった経済の時代であった」と強調する。(『「海国」日本の歴史』)。

 国家間に政治的な対立があっても、それにとらわれず、民間が活発に交易できた当時は、政治が国家間の経済取引に強い支配力を及ぼす現代よりも、ある意味では自由で柔軟な時代だったといえないだろうか。

 最近では新型コロナウイルスの拡大を受け、米国内では産業界から事業の重荷となる対中関税の解除を求める声が強まっている。イランでは感染拡大で深刻な状況が続き、同国に対する経済制裁の緩和を求める国際世論が高まっている。いずれも政府による貿易の規制がもたらした問題である。

 もし政治的な対立とは無関係に米国と中国、イランの人々がより自由に交易できていたら、このような問題はもっと早く解決されていたか、そもそも起こらなかったかもしれない。日元貿易は、コロナ危機に苦しむ現代世界に貴重なヒントを投げかけている。

(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>

北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房

河添房江『唐物の文化史――舶来品からみた日本』岩波新書

近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』〈シリーズ日本中世史 2〉岩波新書

宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房

木村 貴/経済ジャーナリスト

木村 貴/経済ジャーナリスト

経済ジャーナリスト。1964年熊本生まれ、一橋大学法学部卒業。大手新聞社で証券・金融・国際経済の記者として活躍。欧州で支局長を経験。勤務のかたわら、欧米の自由主義的な経済学を学ぶ。現在は記者職を離れ、経済を中心テーマに個人で著作活動を行う。

Twitter:@libertypressjp

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