
「このトマト、高級で手が込んだイタリアンで使うのではなく、冷やしてマヨネーズをかけて食べるだけなので、安くできない?」
そう言われた八百屋さんの店主は、目をぱちぱちして戸惑うに違いありませんが、指揮者の出演料も同じです。この連載も、おかげさまで130回を超え、先日、担当の編集者と話をしていたのですが、「指揮者はどんなコンサートでも出演料は一緒、定額だよ」と話したところ、驚かれてしまいました。僕はあまりにも当然の話だと思っていたので、かえってこちらが驚きました。
たとえば、名曲中の名曲、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』などは、僕もペーペーの指揮者の頃から何度も指揮をしてきたので、楽譜は頭にしっかりと入っています。今、急に指揮を頼まれたとしても、すぐに指揮ができます。日本のオーケストラなら、第一楽章は目をつぶっても弾けるくらい弾き込んでいるので、特別な問題がなければリハーサル時間も長くはかからないと思います。
しかし、マーラーやブルックナーなどの大作のなかでも、普段やらない曲に取り組む際は、オーケストラはもちろん、指揮者も膨大な準備時間を必要となります。数字にしてみると、たとえば指揮者が楽譜を2週間、毎日8時間勉強したとして、現在、日本人の平均時給とされる約1500円では、単純計算で16万8000円の労働となります。もちろん、1カ月以上、勉強に取り組む曲もあります。そこにリハーサルや演奏会の時間も加わり、2万円近い楽譜や、さまざまな資料の購入まで考えれば、最初から芸術家には収支計算の感覚なんてないのです。
しかも実際に、マーラーやブルックナーが活動していたウィーンに自費で訪問して研究を深める方もいらっしゃるでしょう。そもそも、学生時代から苦労して研鑽してきた結果が、演奏にすべて結びつくわけですから、いくら出演料金を頂いてもマイナスになる場合だってあるのです。もちろん、音楽家としての満足という大事なものがあるので、そんな経費のことを考えて音楽をやっているわけではありませんが、そんなことを考えていると、「実際に専業主婦に給与を支払うとしたら、月約40万円」という話と、よく似ていると思います。
何と言いたいかというと、1カ月以上もかけて準備し、オーケストラとも通常より長くリハーサルをした大曲であっても、急に指揮者のキャンセルが出たと電話がかかってきたので、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』の楽譜をさっと本棚から出してリハーサルをし、本番を終えたとしても、出演料金はまったく同じなのです。
しかも、指揮を振るのが簡単とか大変といった理由で出演料金が変わりことはありません。実際には、簡単に指揮できる曲なんてないのですが、ものすごく難しい曲はあります。