「図形は正しく」「鋭く叩いて」「鋭く叩かずに柔らかく」――。こう言われても、多くの方はなんのことか、わからないとは思います。実は、これは音楽大学の指揮科のレッスンで、担当教師から投げかけられる指導の言葉です。
僕は今年から桐朋学園大学で後進の指導にも当たっていますが、この大学は世界的指揮者の小澤征爾、秋山和慶、飯守泰次郎、尾高忠明など、多くの素晴らしい指揮者を輩出している音楽大学で、僕の母校でもあります。
そんな音大の指揮科では、「音楽の真の心をつかんで!」「もっと深みのあるロマンチックな音を!」などと、教師が感極まって震える声で叫んでいるようなことは、まったくありません(なかには言う先生もいるかもしれませんが)。ほとんどは、「4拍子の図形ができてない」「メロディーを叩くな」「いや、もっとはっきりと叩け」といった感じで、指揮を勉強したことがない一般の方々には、まったくわからない指示が飛ぶのです。
そもそも、メロディーは歌ったり演奏したりするもので、叩くものではありません。それにもかかわらず、なぜ指揮者が「叩く」という言葉を使うかといえば、指揮棒で空中を叩く動作をすることでオーケストラに拍を伝え、音楽のテンポや方向性を示すというのが、指揮者にとってまずは大事な仕事だからです。
オーケストラは、多いときには100名以上のメンバーになりますが、各々のメンバーが別々のテンポで演奏し始めたら、ぐちゃぐちゃになってしまいます。そこで、まずは同じテンポを「叩く」ことで伝え、演奏させることが指揮者の大切な役割です。英語でも「Beat」と呼ぶのですが、実際には鋭く叩く動作ばかりではなく、曲調によっては柔らかく撫でるような動作もします。
「棒が遅くならないように」
この表現も、考えてみたらよくわかりません。この“棒”とは、指揮をしている指揮棒の動きのことです。指揮者が振っている指揮棒の速さがどんどん遅くなっていったら、もちろんオーケストラのテンポは遅くなり、音楽がたるんでしまって、魅力がなくなってしまいます。
そもそも音楽にはリズムがあるので、作曲家の指示がない限りクラシック音楽でもポップ音楽でも、音楽的な少々の揺れはあるにせよ基本的なテンポは一定しているのが原則中の原則なのです。つまり、“棒”の示すべきテンポが不正確だと「棒が速くなっている」「棒が遅くなっている」「棒のテンポが定まってない」と、指揮教師から厳しく指摘を受けることになるのです。
ところで指揮科は、レッスンさえ受けていたら指揮者になれるわけではないという点が、ほかの楽器科と大きく違う点です。もちろん、ヴァイオリン奏者やトランペット奏者も自分の楽器さえ上手くなればいいわけではなく、ピアノや合唱を履修したり、音楽理論を勉強したり、ピアノが弾く音を耳で聞いて楽譜に書き出して音感を鍛えるなど、さまざまな基礎的な音楽の勉強をします。
それでもやはり、自分の楽器の演奏が上手いかどうかがもっとも大きな要素であり、大部分を占めていると言っても過言ではありません。そもそも、楽器以外の勉強は完璧であっても、あまり楽器演奏が上手くなければ、まずは音楽大学に入学することさえ難しいでしょう。
そんななんかで指揮が楽器と違うところは、指揮のテクニックはダメでも、高い評価を受けている指揮者も世界中にはたくさんいるということです。
ピアノやヴァイオリンのように3、4歳から始めることも珍しくない楽器とは違い、指揮はぶっちゃけ40歳でも50歳でも始められるくらい、動作自体はそれほど難しくありません。3年もあれば、大体の指揮テクニックは覚えることができます。
だからといって簡単に指揮者になれるわけではなく、指揮以外の勉強こそ大きなウエイトを占めます。音感トレーニングやピアノの練習をはじめ、オーケストラの楽器が全部書かれている楽譜「スコア」をピアノで弾いたり、作曲法を学んだり、高度な音楽理論を勉強する必要があります。ほかにも、歴史や文学などの教養を身につけるだけでなく、オーケストラの楽器もある程度わかっておかないとオーケストラ相手に指揮はできないので、管楽器や弦楽器も習ったりします。
「もっとハーモニーをつかんで」
この言葉も指揮科の教員が使うものですが、“ハーモニーをつかむ”とは、どういう意味でしょうか。音は空気の中を流れているので、つかむことができません。これはつまり、ハーモニーを理解するだけでなく、体で感じて、指揮棒でハーモニーの違いを表現するように、という意味です。ますます意味がわからなくなるかもしれませんが、不思議なことに、良い指揮者であればハーモニーの違いまでも指揮棒の振り方で表現します。
「メロディーばかり指揮せずに」
このように言われた場合、指揮者は一体、何をするのでしょうか。指揮者とは、気持ち良くメロディーに乗りながら指揮をする人というイメージがあります。
ここからは、奥深い話になってきます。オーケストラとは、プロ中のプロの集団です。本連載の以前の記事で触れたように、楽器が恐ろしく上手な人ばかりです。そんなメンバーが集っている一流のオーケストラであれば、指揮者がメロディーを指揮しなくとも、自分たちで美しく演奏する能力を十分に持っています。そこで、指揮者はメロディー以外の伴奏のアンサンブルを美しく整えて、メロディーを演奏する奏者が気持ち良く演奏しやすくするのです。そのために、叩いたり、叩かなかったり、テクニックを屈指するわけです。
もちろん状況に応じて、メロディーを積極的に指揮して呼び水のような役割を果たしてみたり、メロディーの歌い回しが違う場合は事細かに指揮をする場合もあります。このあたりになると、経験を通してしか理解できない部分も多く、音楽大学で学ぶには限界があります。実際の現場での指揮者は、曲に対してオーケストラがどのくらい興味を持っているかや、その日のメンバーの雰囲気、時には「このオーケストラは最近、演奏会がたて込んでいて、ちょっと疲れているらしい」といったことまで、常にアンテナを張って感知しながら指揮を振っているのです。
「はっきりと合図をしなさい」
指揮者は、楽器の出の合図をすることも大事な仕事です。オーケストラの各楽器メンバーは、ずっとぶっ続けで演奏しているわけではありません。たとえば、5分以上も演奏せずに、急に大事なソロを演奏する場合もありますし、楽譜を追っているだけでは、いつ演奏を始めていいのかわからなくなるような複雑な曲もあります。いずれにしても、指や手全体で指揮者は出の合図するのですが、目を合わすだけでも、奏者は安心して自分の最高の音色でソロを演奏できるのです。そのため、「はっきりと合図するように」と指導されます。
ただ、指揮科のレッスンでは、通常は2人のピアニストが弾くオーケストラ曲を指揮します。オーケストラを雇うには莫大なお金がかかるので、「図形を正しく」「テンポが……」「叩きが……」などと言われているような学生には、さすがに用意できませんし、用意できたとしても、毎回というわけにはいきません。
そこで、指揮者を志している学生には、目の前にいる2人のピアニストではなく、たとえば、その場にはいないトランペット奏者を想定して指さして合図をさせたり、本当はヴァイオリンが陣取っているはずの左側を向かせたりします。実際にいないフルートにうっとりとした目線を送ったり、正直、指揮のレッスンは、はたから見るととても変な光景です。
(文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師)