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三井住友銀行の「闇の歴史」をすべて知る巽・元頭取が死去…“磯田天皇”追放劇の真相

文=有森隆/ジャーナリスト
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三井住友銀行(写真=編集部)

 旧住友銀行(現三井住友銀行)の頭取を務めた巽外夫(たつみ・そとお)氏が1月31日、老衰のため死去した。97歳だった。葬儀は近親者で執り行った。後日「お別れの会」を開く予定。喪主は長男の文夫氏。

 巽外夫は1987年からバブル崩壊後の93年まで頭取を務めた。在任中に中堅商社イトマン(旧伊藤萬)を舞台にした不正経理事件が発覚した。イトマンという1部上場企業に闇の勢力が巣くい、フィクサーと呼ばれた人物が勢ぞろいした事件である。あろうことか、住友銀行の経営トップで“天皇”と呼ばれていた磯田一郎が事件に関与していた。

「住銀・イトマン事件」は、3000億円(一説には6000億円)が闇に消えた戦後最大の経済事件であり、いまだに解決していない部分が多く残っている。事件の出発点は住友銀行による平和相互銀行の買収であった。住友銀行を関西の銀行から東京を拠点とする名実ともにトップバンクにするが、“磯田天皇”の悲願であった。住銀が「大阪の銀行」といわれることに我慢がならなかった。

 すでに会長になっていた磯田が目をつけたのが、首都圏に100近い店舗を構える平和相互銀行だった。磯田の密命を帯びて、イトマン社長、というより住銀元常務の河村良彦は平和相銀獲りに動く。河村は住銀常務から船場の老舗問屋、伊藤萬(のちのイトマン)の再建社長として送り込まれた。河村は磯田の汚れ仕事を請け負う裏カードだった。イトマンについた仇名は「住銀のタン壺」。これが、住銀・イトマン事件を引き起こす人的背景の本線である。

住銀・イトマン事件

 1986年10月1日、住銀は平和相銀を吸収合併した。河村は磯田の「平和相銀買収計画」を外部に気取られずに進めるため、裏カードの役割を完璧にやり遂げた。やがて、磯田と河村の間に隙間風が吹く。河村はイトマン社長の在任期間が10年を超え、住銀内部からもワンマンの弊害を指摘されるようになる。河村は磯田に「そろそろ会長に退いたらどうか」と促された。この時は突っぱねたが、退任勧告を受けるのは確実の情勢となっていた。

 河村は対策を立てた。業績不振による引責辞任という口実を与えないようにするため、見せかけの好決算をつくり上げた。厚化粧したのである。それと同時に、個人的にもイトマンの株式を取得して発言権を確保することに努めた。そのため、“地上げ屋”の伊藤寿永光(本人は“地上げ屋”と言われることを極端に嫌っていたらしい)を不動産担当の常務に迎え入れた。伊藤のイトマン入りが起爆装置となり、住銀・イトマン事件が火を噴くこととなる。

 伊藤が住銀の磯田(当時、磯田は会長になっていた)に会ったのはイトマンの常務になる少し前の90年4月24日。大阪ミナミのホテル日航大阪の一室で、河村が両者を引き合わせた。それ以来、伊藤は磯田にぴったりと密着する。「私がイトマンを退社する(91年)11月8日までの間に、67回も広尾(東京都渋谷区)の磯田邸を訪問しています」と伊藤は語っている。

 わずか1年半の間に、これほどの回数、磯田邸を訪問したというのである。住銀の現役の役員だって、こんなに頻繁に磯田の家を訪問することはなかっただろう。毎晩のように磯田の私邸に通い、老獪なバンカーを籠絡してしまったのだから、伊藤の“人たらしぶり”は尋常ではない。

 イトマンは巨額の資金を住銀から引き出し、ゴルフ場や絵画につぎ込んだ。「このままでは住銀がヤミ勢力に喰われてしまう」。その危機感から反磯田で結束した役員たちが決起した。

クーデター

 90年10月7日、住友銀行東京本店で専務以上が出席する経営会議が開かれ、磯田会長の解任が決議された。13年にわたり頭取・会長として住銀に君臨した“磯田天皇”に対するクーデターが成功した瞬間だ。元住友銀行頭取の西川善文は『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』(講談社)で、「(私が)磯田一郎のとどめを刺した」と書いた。そして住銀・イトマン事件に言及した。

「イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う」

“磯田天皇”の娘可愛さがすべての出発点だった――という見方に説得力があった。イトマン事件処理のハイライトは、磯田会長に対して引導を渡した場面だ。常務の西川が、イトマン事件の責任を取らせるべく、経営会議で磯田会長の退任を求める要望書をまとめた。頭取だった巽が、その“血判状”を磯田に手渡し辞任を迫った。西川の著書によると、巽は「君たちが支えてくれるなら僕は、その期待に沿わなくてはならないね」と語ったという。これが磯田の退任の引き金になった。

 磯田から頭取に抜擢された巽は、回り回って、磯田に引導を渡す役割を演じた。イトマンの解体処理も手がけ、住銀の再生に道筋をつけた。巽はイトマンにからんで自宅に火炎瓶を投げ込まれたこともあった。「女房が高血圧になってしまってね」。家族にも心労をかけたことを、こうした短い言葉に託したこともあった。評伝で「住友銀再生の立役者」と書いた新聞があった。

 福井県出身。特攻隊員の生き残り。沖縄に飛び立つ寸前、天候不良で九死に一生を得た経験を持つ。1947年、京都帝国大学(現・京都大学)を卒業し、住友銀行に入行。融資や審査部門で頭角を現した。経営不振に陥った旧東洋工業(現マツダ)を担当する融資第二部の部長として、東洋工業の再建に取り組み、米フォード・モーターとの提携を実現させたことが「一番思い出深い仕事」と、頭取になってから語っていた。住銀の頭取を退いた後も、長らくマツダの社外取締役は続けていた。

 磯田、西川も死んだ。そして巽も。住友銀行の栄光時代のバンカーは、皆、鬼籍に入った。拙著『住友銀行暗黒史』(さくら舎、2017年2月)の帯にこうある。

<戦後最大の企業犯罪の真相と闇! 6000億円以上が闇に消えた住銀・イトマン事件。原点には住銀のブラックな経営体質があった! 金と権力に取り憑かれた男たちの死闘!>

 帯の裏はこうだ。

<イトマン事件は、住友銀行首脳陣の暗闘の影絵芝居である。社長の椅子に固執するイトマンの河村は、イトマンの社長人事から磯田の目をそらすために、住友銀行内での“反磯田”の動きを磯田に伝えつづける。“反磯田”の、どんなささいな動きでも、すぐに磯田の耳に入れたのが伊藤寿永光であった。磯田にとっていちばん大事なのは自分である。まず「内なる敵」を叩かなければならないという気持ちにまで追い込んでいく。“人事の磯田”とは、つまるところ「表カード」と「裏カード」を巧妙に操るという意味だった。磯田は「裏カード」として河村を重用し、河村は伊藤を使った>

(文=有森隆/ジャーナリスト、敬称略)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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