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「偉人たちの診察室」第12回・松永久秀

精神科医が語る“戦国一の極悪人”松永久秀…信長の持つ革新性への無理解から裏切った?

文=岩波 明/精神科医
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“世の者がなしえぬ3つの大罪を犯した極悪人”と伝えられる、戦国時代の武将・松永久秀。画像は、幕末に活躍した浮世絵師・落合芳幾によって1867年に描かれた「太平記英勇伝十四・松永弾正久秀」(Wikipediaより)。

 戦国時代の武将であった松永久秀は、日本の歴史の中で突出したヒール(悪役)のひとりで、下剋上によってのし上がった人物の典型例として紹介されることが多い。彼は彼の仕業とされたさまざまな「悪事」によって、人格的にも酷薄で問題の多い人物とみなされることが多かった。本稿における記載は主に、金松誠氏による『松永久秀』(戎光祥出版)を参考にしていることをお断りしておく。

 江戸時代の逸話集『常山紀談』によれば、織田信長が徳川家康に松永を紹介するときに、次のように述べたという。

「この翁は、世の者がなしえぬことを三つやりおおせた。将軍を弑逆し、主君である三次氏を殺し、大仏殿を焼いたのだ」(砂原浩太朗『逆転の戦国史』小学館)

 これまでの歴史書によれば、松永は、室町幕府第13代将軍の足利義輝を殺害し、奈良東大寺の大仏に火をはなって炎上させ、さらに主君であった三好義興も自ら手をかけて殺害した“大悪人”であると伝えられている。

 こうしたエピソードは織田信長の伝記である『信長公記』の筆者である太田牛一が別の文書にも記載していることから、事実であると信じられてきた。ところが改めて同時代の資料を見直してみると、後世の創作である部分が少なからず見られることが判明しつつあるらしい。

 むしろ、藤岡周三氏が指摘するように、尾張時代には自ら織田の本家に取って代わって織田家の総帥となり、将軍足利義昭を殺害しないまでも京都から追放し、さらに比叡山の焼き討ちまで行った信長本人こそ、「世の者がなしえぬことを三つやりおおせた」張本人なのである。(藤岡周三『松永久秀の真実』文芸社)。

松永久秀は、単なる土豪から城持ちの大名にまで異例の大出生をした“異脳”の人物

 久秀は、1508(永正5)年の生まれである。その出自については諸説があるが、摂津東五百住(現・大阪府高槻市)の出身であるという説が有力で、地元の土豪層の出身であると考えられている。その出自を考えると、豊臣秀吉ほどではないにしろ、久秀は単なる土豪から城持ちの大名にまで異例の大出生をした人物であり、下剋上の時代を生き抜く「異脳」を持っていたものと思われる。

 久秀が頭角を現したのは、細川家の家臣、三好長慶の下においてである。三好長慶もまた戦国時代の申し子のひとりであった。1549年、三好長慶は主君である細川晴元と争い、和睦の結果、摂津下郡にある越水城に入城した。これ以後、久秀は三好長慶の配下に入ることとなったようである。

 その8年後、三好長慶が京都を制圧したときに、久秀は長慶の「内者」に任命されている。この役職は有力大名の直属の部下を示す役職であり、久秀が台頭してきたことを示すものである。

 ただ、その後も畿内の情勢は安定しなかった。三好長慶は細川晴元らとの戦闘を断続的に継続した。両者の間では何度か和睦がかわされては、それが破棄されることを繰り返した。武将たちの離合集散、部下や親族の裏切りは日常茶飯事のことだった。

 1553年、久秀は三好長慶の指示によって、摂津滝山城の城主となっている。ただし久秀自身は側近としての役割を果たすため、自らの家族とともに芥川城に滞在していたようである。

 1558年、将軍足利義輝、細川晴元の軍勢が京都に攻め入り、三好長慶、久秀らがこれを迎え撃ったが、数カ月の攻防の後に両者は和解した。これ以後、三好方は河内、大和などへの侵攻を開始している。

 1559年、久秀は大和に侵入し、筒井順慶を追いやって、筒井城を本拠地とした。これ以後、久秀は積極的に大和に侵攻し、ほぼ大和一国を手中に収め、信貴山城を本拠地に定めた。さらに1560年には奈良県の北部に多聞山城を築いている。しかしその後も戦闘は止まず、三好方と、将軍義輝、六角氏らとの戦闘が繰り広げられたが、最終的には三好方の勝利に終わっている。

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金松誠著の単行本『シリーズ 実像に迫る9 松永久秀』(2017年、戎光祥出版)
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