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三井物産初代社長・益田孝と『青天を衝け』渋沢栄一との共通点…放蕩息子が一流の文人に

文=菊地浩之
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三井財閥の重鎮として数々の功績を残した、実業家・益田孝。商売仲間の渋沢栄一とは共通点が多いようで……。類友ってやつ? (画像はWikipediaより)

のちに三井物産のトップに就く益田孝、佐渡島の役人の子に生まれ、有能ゆえに幕臣へと出世

 昨年12月26日に最終回が放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一(演:吉沢亮)の商売仲間として、たびたび益田孝(ますだ・たかし/演:安井順平)が登場した。ドラマでは「その他大勢」のような役回りなのだが、「何事にも立ちどころに神算鬼謀、どうしてこんなにもアタマが働くものかと驚くばかり、おそろしいチエがあった」人物で、「財界では『徳の渋沢、智慧(ちえ)の益田』といわれた」。

 益田孝(1848~1938年)は、佐渡島で役人の子として生まれた。孝の父は佐渡奉行所の目付役だったが、やっぱりこの人も有能だったらしい。時の佐渡奉行が「益田のような人物を佐渡の地役人にしておくのは実に惜しい」と幕府に推薦し、1854(安政元)年に箱館奉行支配調役下役に大抜擢された。

 この抜擢は父のみならず、息子・孝の生涯にも大きな影響を与えた。箱館では奉行所のなかに子弟を教育する学校のようなものがあり、孝はそこで英語を学んだのだ。

 1859(安政6)年、孝の父は外国奉行支配定役に抜擢され、江戸詰に転じ、のちに勘定方に取り立てられた。孝も父に従って江戸に出て、1861(文久元)年から外国奉行に出仕した。最初は給仕のようなことをしていたが、「少しは英語を知っておったものだから」、ほどなくして外国人宿舎詰に昇格したという。

 1863(文久3)年に幕府は欧州使節団をフランスに派遣、益田父子も随行した。

 江戸幕府が欧州に使節を派遣するのは4回。初回は1860(万延元)年で小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ/演:武田真治)や勝海舟、福沢諭吉らが随行。2回目が1862(文久2)年で福沢諭吉、福地源一郎(演:犬飼貴丈)ら。3回目は益田父子が随行した派遣団で、杉浦愛藏(演:志尊淳)、田辺太一(演:山中聡)らも同行している。そして、4回目は渋沢栄一らが随行する派遣団だ。

渋沢栄一と同じく有能で、栄一同様に、幕臣→商人→大蔵官僚→退官というエリート街道をひた走る

 帰国後、孝は幕府の騎兵差図役に任じられ、死をも覚悟したが、江戸城の無血開城で一命を取り留めた。

 維新後、孝は親戚から「横浜はこれからだんだん発展する所で、これから面白いことがあるから来いと言われ」、横浜で商売を始めた。孝は英語ができたため、外国人商人との通訳から始め、外国商館に入り、貿易の実務を覚えた。商売を通じて岡田平蔵や馬越恭平(のちの大日本麦酒社長)等の知己を得、岡田平蔵からは井上馨(演:福士誠治)を紹介された。

 井上は益田孝に会い、造幣局への出仕を推挙。孝は大蔵省大阪造幣寮の造幣権頭(ぞうへいごんのかみ)となった。当時、造幣局を指揮していたのは御雇い外国人・キンドルであり、前任の造幣権頭は英語ができないこともあって、関係がうまくいっていなかった。「井上さんの考えでは、益田は横浜で外国人を相手にして商売をしておったのだから外国人の呼吸もよくわかって」いるからだろうということらしい。実際、孝はキンドルと良好な関係を築き、懸案事項を一挙に解決した。

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井桁の中央に三を配した、おなじみ三井グループのシンボルマーク。(画像は葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図』。Wikipediaより)

益田孝、三井物産初代社長に就任し、日本経済新聞の祖である経済新聞も創設する

 1873年、井上馨が政府内部の意見対立で下野すると、益田孝渋沢栄一も大蔵省を辞し、行動をともにした。

 井上は「先収会社」という貿易会社を興し、益田孝はその東京店頭取となった。ところが、1875年に井上が元老院議官に任ぜられ政府に戻ると、井上主催の先収会社は解散することになった。ところが、これに目を付けた三井の番頭・三野村利左衛門(演:イッセー尾形)は先収会社東京店を三井の国産方(国産品を扱う部門)と合併させ、三井の会社として存続させる。益田孝は三井に入って商売を続けることに抵抗したが、三野村・井上が強引に説得し、ついに説き伏せたのだという。

 翌1876年7月、先収会社は三井物産として再スタートを切り、三井同族を社主に迎え、益田孝が社長となった。それから、「社長といえば、日本郵船か三井物産の社長を指した」というくらい、日本を代表する企業に育て上げたのだ。

 益田孝は国内外の支店・出張店を通じて各地の物価や商況を集め、1876年12月、「中外物価新報」という経済新聞を発行した。現在の「日本経済新聞」の祖である。

益田孝、三井家同族会事務局管理部専務理事に就任…三井を株式会社化し、自身は男爵に列する

 初期の三井物産の主たる取扱品は米穀だったが、伊藤博文(演:山﨑育三郎)が官営三池炭礦の石炭を海外販売することで利潤を上げようと考え、三井物産に委ねたことから石炭販売で大きく潤った。

 ところが、三池炭礦が払い下げされることになる。三池炭販売の利潤が三井を経由して長州藩閥に流れていくことから、反長州派が画策したのだ。益田孝はなんとしても三井が払い下げを受けるように尽力し、三菱と競り合ったが、払い下げに成功。のちに三井の有力企業となる三井鉱山の原型とした。

 一方、益田孝は紡績業の勃興を見越して1880年代に紡績機械や原料の綿花輸入に力を入れ、1900年頃にはわが国貿易額の2割強を占めるようになった。実はその頃の三井物産は株式会社ではない。合名会社といって、一族数名による出資の非上場会社みたいなものだ。つまり、わが国貿易額の2割強の利益が全額、三井一族の懐に入る計算となる。三井一族が日本を代表する大金持ちになるのは当たり前であろう。

 こうした功績から、益田孝は1902年に三井家同族会事務局管理部専務理事に就任する。エラいんだか、なんなんだか、よくわからない肩書きなのだが、三井財閥のサラリーマンのトップなのだ。

 三井物産の利益がすべて三井一族の懐に入るということは、換言するなら倒産したときのインパクトはシャレにならない(しかも一族は自分の保有資産にしか興味がない)。株式会社は有限責任だが、合名会社は無限責任である。株式会社が倒産した場合、出資者は出資した株式がパーになるが、それ以上の責任は負わない。しかし、合名会社の場合、出資の範囲を超えて、生じた負債全額をも負う責任があるのだ。

 そこで、益田孝は欧米の財閥事情を調査させ、持株会社の導入に踏み切る。1909年に三井家同族会事務局管理部を法人化して持株会社・三井合名を設立し、傘下企業の有限会社(三井銀行・三井物産・三井鉱山等)を株式会社に改組した。株式会社は有限責任なので、たとえば三井物産が倒産した場合でも、そのリスクは親会社の三井合名のところで遮断できる。

 かくして、益田孝は三井財閥の成長に大きく貢献したのだが、1914年にシーメンス事件が起きて三井物産の重役が有罪となると、益田は現役を退き相談役に就いた。益田鈍翁(どんのう)の号を持つ茶人として有名である。

 また、1918年に多年の功を以て男爵に列した。爵位の請願運動には人一倍積極的だったというが、主家の三井十一家でも、3家しか爵位を頂いていなかったので、派手な祝賀会は一切行わなかったという。

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益田孝の子・益田太郎。「コロッケの唄」は新婚なのに連日コロッケしか出てこないことを嘆いたコミックソング。実業家として務めるかたわら、劇作家としても活躍した。(画像はWikipediaより)

益田孝の“放蕩息子”は、コミックソング「コロッケの唄」を大正時代にはやらせた名物社長として活躍

 ちなみに、渋沢栄一の子・渋沢篤二(演:泉沢祐希)は放蕩して廃嫡されたが、益田孝の子・益田太郎も遊興が好きだったらしい。一説によれば、中学生の太郎が、両親不在の自宅に品川芸者数十人を集めて大宴会を開いていたのを、帰宅した孝が驚き、「日本にいると何をはじめるかわからない」と行く末を案じて、英国に留学させたという。

 太郎は8年間の留学を終え横浜正金銀行(のちの東京銀行、現・三菱UFJ銀行)に入行。1902年に27歳で日本精製糖株式会社(のちの大日本製糖)の常務に就任した。父・孝が三井財閥の事実上のトップになった頃である。ちょうどこの頃、三井物産は製糖事業に本格的に参入し、台湾製糖(現・三井製糖)設立を主導している。

 太郎は1906年に日本精製糖での見習いを終え、台湾製糖の取締役に就任、1939年に社長に昇格した。大株主・三井物産のトップの子どもが、その子会社の役員に就くという大甘な構図である。太郎の子どもたちは台湾製糖やその関係会社役員に就任し、あたかも台湾製糖は益田家の家業のようになった。

 さて、益田太郎の青年期の放蕩ぶりを先述したが、その素行は大人になっても直らなかった。そして、その素養は「文化人」として花開いた。太郎はいろいろな企業役員を兼務したが、1907年に帝国劇場株式会社の設立とともに、益田太郎は文芸担当重役に就任。「益田太郎冠者」のペンネームで数十編の脚本を執筆、自ら演出に当たった。作詞した「コロッケの唄」なるコミックソングが、1917(大正6)年頃に大ヒットを飛ばしたことでも有名である。

 益田孝も渋沢栄一と同様、江戸ではなく地方に生まれ、幕府の使節団でフランスに渡って幕臣に取り立てられ、維新後は商売をはじめたが、大蔵省に仕官。井上馨とともに退官して私企業の設立に関与、行きがかり上、そのトップとなった。

 その上、跡取り息子は遊興にふけって――というところまでピッタリ一致しているのだが、栄一は篤二を廃嫡、益田孝は太郎を企業経営者&文化人に育て上げた。まさに「智慧の益田」の面目躍如であろう。

【参考文献】
藤原銀次郎『思い出の人々』(1950年、ダイヤモンド社)
長井実編『自叙 益田孝翁伝』(1989年、中公文庫)

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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