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渋沢栄一が仕えた井上馨の妻は“建武新政”新田義貞の子孫…新田一族の悲しき負け組の歴史

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年が描いた錦絵の新田義貞。明治18年以降に出版された連作『月百姿』のなかの「稲むらか崎の明ほのの月」より(画像はWikipediaから)。新田義貞は後醍醐天皇による建武新政の功労者のひとりだが、鎌倉幕府が倒れたのち、北朝の足利尊氏と相対する南朝側の総大将として活躍し、戦死した。

幕臣をディスりつつ、幕臣の娘たちを妻に持った明治新政府の重鎮たち

 昨年12月26日に最終回が放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』。その第34回「栄一と伝説の商人」(11月7日放送)では、来日する前アメリカ大統領一家の接待のため、政財界のご婦人たちが総動員されたのだが、そのうちの3人は旗本の娘だった。

・大隈重信(演:大倉孝二)夫人 綾子(演:朝倉あき)  旗本三枝家の娘
・井上 馨(演:福士誠治)夫人 武子(演:愛希れいか) 旗本岩松(新田)家の娘
・益田 孝(演:安井順平)夫人 栄子(演:呉城久美)  旗本富永家の娘

 大久保利通(演:石丸幹二)が幕臣の重用に憤ったり、玉乃世履(たまの・よふみ/演:高木渉)が幕臣の下では働けないと不満を漏らしていたりしたのだが、明治新政府の重鎮たちは私生活では幕臣の娘たちの尻に敷かれていたのだ。

足利家と同じく源氏の名門であった新田家、鎌倉初期の“スタートダッシュ”で大失敗

 井上馨の妻・武子は、南北朝の武将・新田義貞で有名な新田家の出身である。もっとも、彼女が生まれた頃はまだ岩松を名乗っていた。なぜかというと、歴史の「負け組」だったからだ。新田一族の歴史は「負け組」の歴史といってよい。

 新田家の家祖は、八幡太郎義家の孫・新田義重である。上野(こうずけ/群馬県)の新田荘という荘園を本拠としていたことから新田を名乗った。弟の足利義康は下野(しもつけ/栃木県)の足利荘を本拠としていた。その名でわかるように、足利将軍家の先祖だ。

 足利家が武士の支持を得て幕府を開くことができたのは、源氏の名門だからという側面が大きい。一方の新田家はパッとしない貧乏御家人で、足利家の分家だと思われていた。

 両家の始まりはほぼ同じだったのに、鎌倉時代に大きな格差が生じたのは、そのスタートラインでつまずいたからだ。

 源頼朝が挙兵した時、新田義重は源氏にも平氏にもつかない中立的な立場を保っていたが、頼朝の従兄弟・木曽義仲(きそ・よしなか)が上野に出張ってくると、義重は鎌倉に参上(=義仲を恐れ、頼朝の援護を求めて鎌倉に逃げた)。なし崩し的に頼朝の幕下につくことになった。

 一方、義重の弟の足利義康は頼朝が挙兵すると早々と馳せ参じた。義康の妻が頼朝の母の姉妹(姪という説もある)だったからだ。頼朝は足利家を重用し、北条家も足利家と代々姻戚関係を結んだ。

 かくして足利家は鎌倉幕府の名門御家人となり、新田家は貧乏御家人の末路をたどったというわけである。

新田義貞、足利尊氏に敗れる…新田家支流の岩松家が台頭するも上杉禅秀の乱で討ち死に

 後醍醐天皇の討幕命令によって、河内(かわち/大阪府の南部)の楠木正成(くすのき・まさしげ)が挙兵。鎌倉幕府は大番役で在京していた御家人を楠木討伐に向かわせた。新田義貞も討伐軍に参加したが、秘かに討幕の綸旨を受け取り、仮病を使って新田荘に帰って挙兵。1333(元弘3)年5月、鎌倉に攻め入って北条一族を滅ぼした。

 建武の中興で新田一族は上野・播磨・越後・駿河の国司を与えられ、武者所という中央官庁で登用された。

 ところが、後醍醐天皇の新政権ではあっという間に内紛が起き、1335(建武2)年11月には早くも尊氏と義貞が合戦を開始。泥沼の抗争劇が繰り広げられ、1338(建武5)年閏7月に義貞は討ち死にしてしまう。

 では、義貞の死後、新田一族はどうなったのか。義貞の系統である宗家に代わって新田荘近在を治めたのは、支流の岩松家である。岩松家は男系を辿ると足利家の支流にあたるが、鎌倉時代は女子にも相続が認められており、岩松家は義重の孫娘を祖とする家柄なのだ。

 南北朝時代の岩松経家(つねいえ)は新田義貞に属して討ち死にしているが、その子・岩松直国(ただくに)は足利家に属した。

 その孫・岩松満純(みつずみ)は関東管領の上杉氏憲(うじのり)の女婿となっている。氏憲は出家して禅秀(ぜんしゅう)と名乗り、鎌倉公方の足利持氏と対立して「上杉禅秀の乱」を起こし、1417(応永24)年1月に討伐された。当然、女婿の満純も禅秀側につき敗北。捕らえられて斬首されてしまう。

室町6代将軍義教が足利持氏を討った永享の乱に岩松家は新田に復姓するも、戦国の下剋上に敗れる

 岩松満純の遺児・土用松丸(のちの家純)は秘かに逃れて、甲斐の武田家、美濃の土岐家に匿われた。そして、将軍・足利義教が足利持氏を討つと(永享の乱)、今度は討手として活躍。その軍功により、新田の旧領をまるまる回復して、新田家純(いえずみ)と名乗り、家臣の横瀬国繁(よこせ・くにしげ)に新田金山城を築かせた。

 岩松家の系図では、家純の父・満純は岩松家の養子で、実は新田義貞の孫だったといっている。しかし実態は逆で、岩松家が新田荘を回復したから、宗家・新田義貞の末裔だと僭称(せんしょう/勝手に名乗る)したのだろう。

 ところが、その家老・横瀬家が擡頭(たいとう)し、新田(岩松)家を凌ぐ勢力となる。家純の孫・新田尚純(ひさずみ)は横瀬家と対峙するが敗れ、その子・新田昌純(まさずみ)は横瀬成繁(なりしげ)を謀殺しようとするが失敗。城に火を放って自害した。弟の新田氏純(うじずみ)も、横瀬家の専横に絶えかねて自害したという。

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江戸時代初期の幕府御用絵師、狩野探幽が描いたとされる徳川家康像(大阪城天守閣所蔵、画像はWikipediaより)。家康は、新田守純にブチギレた?

新田守純、千載一遇のチャンスに家康にダメ出ししてしまい、わずか20石の旗本へ

 そして、氏純の子・新田守純(もりずみ)は居城・新田金山城から追い出されてしまう。しかし守純には、空前絶後ともいうべき名誉挽回のチャンスが訪れる。関八州の主が、新田支流を僭称する徳川家康に替わったのである。

 ここで家康におべっかを使っておけば、名門好きの家康から相応の待遇を与えられただろう。家康としても、新田本家の守純から一門と歓迎されれば、家柄に箔が付く。

 果たして、守純は家康に拝謁したのだが、家に伝わる系図を見せたところで失言があり、手ぶらで帰されてしまう。その具体的な内容は伝わっていないが、おおかた「三河の徳川? そんな家系は聞いたことがない。新田一門と認めるには、何か具体的な証があれば――どうせないんだろう。この田舎侍が――よいのだが」とかなんとか言ったんじゃないのかな。

 守純が与えられた家禄はたったの20石! しかもその後、孫の岩松秀純(ひでずみ)は岩松に復姓するように命じられた。「新田」を名乗るなってことだ。岩松家の全否定である。

 しかし、1663(寛文3)年、3代将軍・家光の13回忌で、忍藩主・阿部忠秋の推挙により120石に加増された。そして、岩松家は交代寄合(こうたいよりあい)に列したという。交代寄合とは、参勤交代をする格の高い旗本のことで、数千石の高禄であることが多い。わずか120石で交代寄合に列した岩松家の家計は火の車だったようだ。

 そこで、岩松家は絵画制作・販売という珍しい副業を編み出した。秀純の曾孫・岩松温純(あつずみ)が描いた猫の絵「岩松の猫絵」が、ネズミよけに効くといわれ、北関東の養蚕農家でもてはやされた。以後、代々の当主が猫絵を描き、明治時代まで続いた。

岩松家の家老であった横瀬家は家康に気に入られ、江戸期には高家に大出世

 ちなみに、岩松家の家老だった横瀬家は、由良(ゆら)と改姓。由良国繁(くにしげ)は家康にもそつなく応対したのか7000石を与えられ、国繁の曾孫・由良貞房(さだふさ)は名門の出身ということで、「高家」(こうけ)に選ばれている。高家(由良・横瀬)と交代寄合(岩松家)のどちらが格上かといえば、前者に軍配が上がる。岩松家はさぞ悔しかったに違いない。

 由良(旧姓・横瀬)家は小野氏の子孫だといわれているが、新田義貞の遺児・貞氏の末裔と僭称していたのだ。岩松家も義貞の末裔を騙っているが、まぁ新田家の支流であるから大目に見るとしても、徳川家や由良家は新田家とはまったく関係がない。ひどいもんである。

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八幡太郎・源義家を祖とする源氏の“支流”、新田家(岩松家)の幕末に至るまでの家系図。明治の元勲のひとりである井上馨に嫁いだ新田武子は、西洋流の社交術やマナー、英語など習得し鹿鳴館という社交場を盛り上げたという。

岩松家、明治維新後の“新田家正嫡論争”についに勝って華族に列せらる

 明治維新後、岩松家と由良家はともに新田に復姓した。

 1869(明治2)年に版籍奉還が行われた時、華族・士族・平民の身分階級が設けられ、旧大名・公卿が華族に列せられた。高家と交代寄合は家禄が少ないものの、官位が他の武士に比べて高かったので、華族入りを検討されたが、結局、一律対象外とされてしまった。

 旧岩松家は、南朝で功績のあった新田家・楠木家の子孫を華族に参入するように地道に請願運動を重ねた。その執念が実って、南朝功臣の菊池一族、新田義貞、名和長年(なわ・ながとし)の末裔が華族に列することが決まった(楠木正成の子孫は、家系が混乱して正嫡が見極められなかったので、見送られた)。

 そこで、新田義貞の正当な末裔が誰か、旧岩松家と旧由良家が名乗りを上げ、南朝史に詳しい国学者の谷森善臣(たにもり・よしおみ)が政府の委嘱を受け判定。旧由良家が新田の正嫡である証を200点以上揃えたのに対して、旧岩松家は3点しか用意できなかったという。

 かくして「由良系が新田正統に間違いないことが言い渡されたという。しかし、結果的には新田正統は岩松系の新田満次郎俊純(まんじろう・としずみ)であるとされ、十六年八月十三日付でこちらが華族に列し、俊純は十七年七月の華族令公布時には男爵を授けられる」(松田敬之『<華族爵位>請願人名辞典』(吉川弘文館)より/強調太字は引用者)。

 政治家が学者の決定を覆すのは今も昔も変わらない。なんてったって新田俊純は、明治の元勲である井上馨の妻の父親なのだから、そりゃあ忖度するなってほうが無理であろう。かくして、負け続けてきた新田一族がやっと勝利した瞬間が訪れたのであった。

(文=菊地浩之)

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明治の元勲のひとり、長州出身の井上馨。妻の新田武子の家である新田家を強力にプッシュした?(画像はWikipediaより)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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