
幕臣をディスりつつ、幕臣の娘たちを妻に持った明治新政府の重鎮たち
昨年12月26日に最終回が放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』。その第34回「栄一と伝説の商人」(11月7日放送)では、来日する前アメリカ大統領一家の接待のため、政財界のご婦人たちが総動員されたのだが、そのうちの3人は旗本の娘だった。
・大隈重信(演:大倉孝二)夫人 綾子(演:朝倉あき) 旗本三枝家の娘
・井上 馨(演:福士誠治)夫人 武子(演:愛希れいか) 旗本岩松(新田)家の娘
・益田 孝(演:安井順平)夫人 栄子(演:呉城久美) 旗本富永家の娘
大久保利通(演:石丸幹二)が幕臣の重用に憤ったり、玉乃世履(たまの・よふみ/演:高木渉)が幕臣の下では働けないと不満を漏らしていたりしたのだが、明治新政府の重鎮たちは私生活では幕臣の娘たちの尻に敷かれていたのだ。
足利家と同じく源氏の名門であった新田家、鎌倉初期の“スタートダッシュ”で大失敗
井上馨の妻・武子は、南北朝の武将・新田義貞で有名な新田家の出身である。もっとも、彼女が生まれた頃はまだ岩松を名乗っていた。なぜかというと、歴史の「負け組」だったからだ。新田一族の歴史は「負け組」の歴史といってよい。
新田家の家祖は、八幡太郎義家の孫・新田義重である。上野(こうずけ/群馬県)の新田荘という荘園を本拠としていたことから新田を名乗った。弟の足利義康は下野(しもつけ/栃木県)の足利荘を本拠としていた。その名でわかるように、足利将軍家の先祖だ。
足利家が武士の支持を得て幕府を開くことができたのは、源氏の名門だからという側面が大きい。一方の新田家はパッとしない貧乏御家人で、足利家の分家だと思われていた。
両家の始まりはほぼ同じだったのに、鎌倉時代に大きな格差が生じたのは、そのスタートラインでつまずいたからだ。
源頼朝が挙兵した時、新田義重は源氏にも平氏にもつかない中立的な立場を保っていたが、頼朝の従兄弟・木曽義仲(きそ・よしなか)が上野に出張ってくると、義重は鎌倉に参上(=義仲を恐れ、頼朝の援護を求めて鎌倉に逃げた)。なし崩し的に頼朝の幕下につくことになった。
一方、義重の弟の足利義康は頼朝が挙兵すると早々と馳せ参じた。義康の妻が頼朝の母の姉妹(姪という説もある)だったからだ。頼朝は足利家を重用し、北条家も足利家と代々姻戚関係を結んだ。
かくして足利家は鎌倉幕府の名門御家人となり、新田家は貧乏御家人の末路をたどったというわけである。
新田義貞、足利尊氏に敗れる…新田家支流の岩松家が台頭するも上杉禅秀の乱で討ち死に
後醍醐天皇の討幕命令によって、河内(かわち/大阪府の南部)の楠木正成(くすのき・まさしげ)が挙兵。鎌倉幕府は大番役で在京していた御家人を楠木討伐に向かわせた。新田義貞も討伐軍に参加したが、秘かに討幕の綸旨を受け取り、仮病を使って新田荘に帰って挙兵。1333(元弘3)年5月、鎌倉に攻め入って北条一族を滅ぼした。
建武の中興で新田一族は上野・播磨・越後・駿河の国司を与えられ、武者所という中央官庁で登用された。
ところが、後醍醐天皇の新政権ではあっという間に内紛が起き、1335(建武2)年11月には早くも尊氏と義貞が合戦を開始。泥沼の抗争劇が繰り広げられ、1338(建武5)年閏7月に義貞は討ち死にしてしまう。
では、義貞の死後、新田一族はどうなったのか。義貞の系統である宗家に代わって新田荘近在を治めたのは、支流の岩松家である。岩松家は男系を辿ると足利家の支流にあたるが、鎌倉時代は女子にも相続が認められており、岩松家は義重の孫娘を祖とする家柄なのだ。
南北朝時代の岩松経家(つねいえ)は新田義貞に属して討ち死にしているが、その子・岩松直国(ただくに)は足利家に属した。
その孫・岩松満純(みつずみ)は関東管領の上杉氏憲(うじのり)の女婿となっている。氏憲は出家して禅秀(ぜんしゅう)と名乗り、鎌倉公方の足利持氏と対立して「上杉禅秀の乱」を起こし、1417(応永24)年1月に討伐された。当然、女婿の満純も禅秀側につき敗北。捕らえられて斬首されてしまう。