
「叩きの練習をしっかりやって」
「しゃくいができてない」
「引っ掛けを教える」
このような言葉を聞いても、皆さんは何の話かよくわからないと思いますが、僕が通っていた音楽大学の指揮の教師の言葉です。日本人指揮者なら、やる・やらないは別として、知らない人はいないはずです。ほかにも、「平均運動」「跳ね上げ」のように、まるで体操の競技のような名前があったり、どういう動きか名前からは想像もつかない「先入」は、音楽大学時代に、難関中の難関として立ちはだかりました。
これらは、日本の指揮教育の第一人者で、小澤征爾氏、秋山和慶氏、飯守泰次郎氏、尾高忠明氏らを育て、世界の第一線に送り込んだ名教師、斎藤秀雄氏がつくった言葉です。斎藤氏は、昨年のショパン国際ピアノコンクールで第2位を受賞し、今も話題の渦中にいる反田恭平氏を輩出した桐朋学園音楽科の創設メンバーの一人でもあります。実は、僕も斎藤氏の孫弟子にあたります。
斎藤氏は、本人も指揮者として活躍なさったのですが、それ以前に優秀なチェロ奏者でした。ドイツ留学を果たしたのちに帰国し、NHK交響楽団の前身である新交響楽団の首席チェロ奏者を務めました。斎藤氏から直接習ったチェロ奏者は少なくなりましたが、多くの孫弟子、ひ孫弟子が、現在でも大活躍しています。ちなみに、当時の新交響楽団のコンサートマスターは、女優・黒柳徹子さんのお父様の黒柳守綱さんです。
そんな斎藤氏が音楽の本場ドイツから帰国してまず取り組んだのは、チェロだけでなく、指揮の教育でした。ドイツで多くの大指揮者をつぶさに見ながら、「どうしたら、あのように指揮者がオーケストラを自由にコントロールできるのだろうか?」と研究したのです。そこで、「指揮のテクニックというものが、運動に関する事柄である」(著書『指揮法教程』より)と理解し編み出したのが、前出の「たたき、しゃくい、ひっかけ」などの運動の名前を付けたテクニックでした。
実は指揮だけでなく、音楽を演奏することは肉体運動です。意外に思われたかもしれませんが、たとえばヴァイオリンを演奏するのも、左手の指を信じられないくらい速く動かしながら、右手に持った弓で音を出すために大きく腕を動かしますし、オーケストラの中で一番大きな楽器のコントラバスのように、身長よりも大きな楽器を演奏するのは、それこそ全身運動です。管楽器は息を吹きこむので体全体を使いますし、打楽器も腕を酷使します。
そんななか、情熱的に体全体を使って指揮をする指揮者は、ものすごい運動量です。本人は大好きな音楽を夢中でやっているだけですし、僕も長い間、指揮者をしているので慣れましたが、20代のデビューをした頃は、コンサートの翌朝、今まで経験したことがないような全身の筋肉痛で、ベッドから起き上がることができませんでした。