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江川紹子の「事件ウオッチ」第222回

護憲集会の不許可に「合憲」判決を下した最高裁への疑義ー江川紹子の解説

文=江川紹子/ジャーナリスト
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金沢市役所(写真提供=PIXTA)
「石川県憲法を守る会」が2017年5月3日、憲法施行70周年集会を開こうとしたところ、金沢市に使用を不許可とされたがーー。写真は金沢市役所(写真提供=PIXTA)

 石川県金沢市の市民団体が、市役所前広場で護憲集会を開こうとしたところ、「市の政治的中立性に疑念がもたれる」などとして市が使用を認めなかったのは「集会の自由」を認めた憲法に違反するとして訴えていた訴訟で、最高裁第三小法廷(長嶺安政裁判長)は21日、市民団体の上告を退け、広場の使用を不許可とした市の対応を認める判決を出した。ところが、原告の市民団体によると、最近は同じ広場で同様の集会が問題なく開催できるようになっており、市の政治的中立性が問題になるような場面もない、という。裁判所が懸念する行政の「政治的中立性」とはいったい何なのだろう。現場からかけ離れた“象牙の塔”で生み出された観のある、この判決の意味と共に考えてみたい。

 まず、事件の概要はこうだ。

 金沢市の市民団体「石川県憲法を守る会」が、2017年5月3日に憲法施行70周年集会を開くため、同年3月末に市役所前広場の使用を申請した。集会は午後1時から30分程度、300人ほどを集めて行われる予定だった。

 同広場は市庁舎敷地の一部にあり、壁や塀などの囲いがない平らな空間。国際交流団体によるイベントや音楽祭などのほか、原水爆禁止を訴える集会なども開かれてきた。「守る会」もここで何度も護憲集会を行ってきた、という。

 前兆は、2014年5月にあった。憲法記念日に、「守る会」を含む県内7市民団体の共催で、陸上自衛隊金沢駐屯地部隊の結成60周年記念パレードに反対する集会を企画したところ、市は「示威行為にあたる」として市役所前広場の使用を許可しなかった。市民団体は裁判を起こしたが、最高裁で敗訴が確定している。

 「守る会」は、17年の憲法施行70周年集会は以前から行ってきたのと同じ護憲集会だと主張したが、市は「特定の政策、主義、意見に賛成または反対する目的での示威行為」などを禁止した市庁舎等管理規則に反すると判断。メディアの取材には、「集会の内容には、政府への批判も含まれると聞いた。市の中立性を確保するため」と説明している。

 「守る会」は行政不服審査法に基づく審査請求をしたが、却下され、訴訟に踏み切った。1、2審判決は、原告の請求を退け、市側の主張を認めてきた。

 その1、2判決を追認した今回の最高裁判決は、5裁判官のうち4人による多数意見だ。「集会の自由」は尊重されなければならないが、公共の福祉による制限を受けることはあるとして、庁舎管理権に基づく維持管理がなされるべき、としている。

 分かりにくいのは、使用不許可を正当とする理由だ。同判決は、この広場で本件集会が開かれた場合、「あたかも市が特定の立場の者を利しているかのような外観」が生じ、「政治的中立性に疑義が生じて行政に対する住民の信頼が損なわれ、ひいては公務の円滑な遂行が確保されなくなるという支障が生じ得る」としている。

 この多数意見を書いた最高裁の4裁判官は、いったいどういう「支障」が生じる事態を想定していたのだろうか。判決文を読んでも、具体的な例示はない。

 そんな疑問が浮かぶのは、この最高裁判決を待たずに、広場の使用を巡る状況は再び変化しているからだ。

「政治的中立性」への疑念は「抽象的なおそれ」にすぎないと指摘した宇賀裁判官

「守る会」の共同代表、岩淵政明弁護士によると、裁判の間も本件広場で毎年5月と11月の護憲集会の申請を続けていたところ、2019年11月3日の集会で、使用が認められるようになった。その後、コロナ禍や音楽祭など他の催しと競合して使用できないことはあるが、そうでない場合は広場を使える状況が続いている、という。

「以前と違うのは、許可の前に(市の規則に反することがないかどうかを確認する)文書照会が行われることと、街宣車による拡声器を使わなくなったことくらいで、人数も含めて前と同じような集会ができている。だからといって、市の中立性に関する問題は何も起きていない。もう現実は変わっている。そのことも、裁判所に出した文書で述べたのに、(最高裁多数意見による判決は)実態を見ようとしない、空理空論の判決だ」(岩淵弁護士)。

 この最高裁判決では、多数意見とは別に、学者出身(行政法)の宇賀克也裁判官が、市側の主張を認めた原判決は破棄されるべき、との少数意見を書いている。その中で、宇賀裁判官は「政治的中立性」への疑念が「公務の円滑な遂行が確保されなくなるという支障」を生じさせるというのは、「抽象的なおそれ」にすぎないと指摘した。

 宇賀意見によれば、本件広場は住民の福祉増進のために使う「公の施設」であり、集会のための使用はその目的にかなっている。本件集会は休日なので、役所の執務に影響もない。集会を認めた場合、市の政治的中立性に疑問を抱いた人が、市の業務に支障が生じるほどの抗議をするという極端なケースは「抽象的なおそれ」にすぎない。

 市側は不許可理由の説明の中で、集会に「政府批判」が含まれるともしていたが、宇賀裁判官は「市の政策に批判的な市民が存在し、実際に市の政策を批判すること自体は、民主主義国家として健全な現象」としたうえで、こう述べる。

〈極端な場合が抽象的にあり得ることを理由として、本件広場の使用を許可せず、集会の自由を制限することは、角を矯めて牛を殺すものといわざるを得ない。〉

 大事な指摘である。

 人々の中に、極端な反応を示す者が現れる可能性は、ゼロとは言えない。しかし、それを過度に恐れて、議論が分かれる問題について公共の場で表現したり集会を開いたりすることをしにくくするのでは、表現の自由や集会の自由は萎縮してしまう。民主主義の基本となる大事な市民的自由を損なうのでは、元も子もない。

 ところが、「政治的中立性」や「公の秩序をみだすおそれ」を理由に、行政が表現の自由や集会の自由が関わる問題で消極的な対応をするのは、金沢市役所前広場のケースだけではない。それに対し、司法は市民的自由を守るうえで、一定の役割を果たしてきた。

 たとえば、かつて関西空港建設に反対する中核派系組織が大阪・泉佐野市の市民会館で集会を開こうとして利用不許可になった事件では、最高裁は、行政が集会の自由を制限できるのは「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要」と判示した。

 また、さいたま市の女性が憲法9条について詠んだ俳句が秀句に選ばれたのにもかかわらず、「政治的中立性」を理由に公民館だよりに掲載しなかった問題で、最高裁は公民館側の対応は違法と判断した。

 現代美術の祭典『あいちトリエンナーレ』で慰安婦像や昭和天皇の写真が含まれたコラージュ作品などが展示されたことを「市が反日プロパガンダを支持、応援したとみられてしまう」「政治的中立性を著しく害する」(河村たかし名古屋市長)として名古屋市が、負担金不払いを決めた問題では、司法は1、2審ともに、「予算や展示面積の割合からすれば(市が問題にしている作品は)一部を占めるにすぎない」「芸術活動は多様な解釈が可能」などとして市の主張を退けている(市が最高裁に上告中)。

 武蔵野美術大の志田陽子教授(憲法学)は、この名古屋高裁の判決を受けて、次のようにコメントしている。

「政治性を含んだ展示であっても、公金の支出がただちに行政の政治的中立性を損なうものではないことを明確にした。もし名古屋市の主張が認められていたら、金を出す自治体の意向を忖度するなど、芸術家の精神的な従属を生みかねず、芸術支援のあり方をゆがめかねなかった。あいちトリエンナーレ以降、公共施設で苦情の恐れがある作品の展示を控える動きが相次いだが、一連の判決は自治体の文化振興の担当者に、そんな萎縮の必要はないと示したと言える」(2022年12月3日付中日新聞)

「政治的中立性」を理由に現場を萎縮させてはならないーー民主主義社会の基本とは

 こうした事例に比べると、金沢市役所前広場での護憲集会を認めなかった同市の主張を丸呑みした今回の最高裁判決は、行政の「政治的中立性」の主張を過剰に評価し、それを理由に市民的自由を後退させることを容認したようにも見える。

 奇妙なのは市民会館などでは行える集会が、広場では「政治的中立性」を理由に使用不許可とできる、という点だ。

 宇賀裁判官も、泉佐野市の最高裁判決を挙げて、市民会館であれば到底認められないような「抽象的理由」が、これまで相当数の集会が認められてきた本件広場の利用を不許可とする理由たりえるのか、という疑問を呈した。

 それを整合させようと、市民会館などにおいても、「政治的中立性」を持ち出して使用させない風潮が広がりはしないか、という懸念もないではない。

 護憲・改憲などのテーマは、政治的な立場などにより、見解が大きく分かれる。そういうテーマに対する行政のあるべき「政治的中立性」とは、抽象的な「支障」を挙げて意見表明の機会を与えないことではなく、様々な意見が自由に表明できる場を提供することではないだろうか。護憲派も改憲派も、それ以外の考え方を持つ人も、自分たちの集まりをそこで持つことができる。そうなれば、広場は多様な言論が交わされ発信される場ともなり、行政の「政治的中立性」も毀損しない。

 先の岩淵弁護士もこう言う。

「行政の中立性を否定するつもりはありません。しかし、憲法や少数者の権利について、一定の見解を牽制するために、『政治的中立性』という言葉が持ち出されることが増えているのではないか。むしろ『中立性』が政治的に利用されている。どんな立場の集会でも許されるのが、民主主義社会の基本。我々だけでなく、改憲派の集会もできる。そうすべきです」

 特に昨今は、人々のSNSの利用が進み、自分と同じ考えや価値観の意見や情報ばかりに囲まれる「フィルターバブル」に陥る危険性も増している。そんな中、広場などリアルな公共空間を通りかかった時に、たまたま異なる価値観や自分が普段接していなかった情報に出会う機会は、とても貴重だと思う。ヘイトスピーチなどは論外だが、広場などの公共空間は、多様な意見や情報が表明され、対話や議論もできる場として、むしろ活用すべきだろう。

 コロナ禍で中止になったりオンライン開催になったりしてきた集会やイベントが、通常開催されるようになってきている。今年の憲法記念日には、各地で改憲、護憲、さまざまな立場での集会が開かれるだろう。憲法に限らない。敵基地攻撃能力や防衛費増大、少子化対策、同性婚、原発の建て替えなど、国民的な議論が必要な課題がいくつも国政の俎上に載せられている。人々が意見を表明すると同時に、できるだけ多様な意見に触れる機会を提供することこそが、行政に求められる「政治的中立性」だと思う。様々な施設の利用許認可に当たる各自治体の担当者には、どうか今回の判決の宇賀意見こそぜひ読んで欲しい。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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