光学ガラスメーカー最大手、HOYA元社長の鈴木哲夫氏が肺炎のため死去した。90歳だった。喪主は長男でHOYA最高経営責任者(CEO)の鈴木洋氏。お別れの会は8月7日正午から東京・千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ「鶴の間」で行う。HOYAの中興の祖とされ、社長在任期間は30年以上に及んだ。
失脚して3年間の浪人生活から復活
太平洋戦争が始まる1941年11月、山中茂氏が兄の正一氏とともに東京都保谷町(現・西東京市)で東洋光学硝子製造所を創業したのがHOYAの始まりだ。双眼鏡などに使われる軍需用の光学ガラスの生産を始めた。だが、敗戦で軍向けの受注はゼロになり、クリスタルガラスの食器の生産に転換した。
そんな時に入社してきたのが哲夫氏である。24年12月愛知県に生まれ、東京工業大学附属高等工業教員養成所を卒業。後に茂氏の長女と結婚した。57年、茂氏が病に倒れたため32歳で社長に就任した。その頃は、資本金900万円、従業員300人、売上高2億円の町工場だった。
哲夫氏は、町工場では景気変動の影響を大きく受けるため、なんとかそこから抜け出したいと考えるようになった。哲夫氏は理論を尊重する経済合理主義者だ。米経営学者ピーター・ドラッカーの経営書に大いに啓発された。
哲夫氏は社長就任後の5年間で売り上げを10倍の20億円に拡大させた。この間、社名を保谷硝子に変更、61年には東証2部に株式上場を果たして勝負に出た。直販体制の経営理論を実践すべく30億円を投じ、クリスタルガラス食器の新鋭工場を建設した。
しかし、東京オリンピック景気の反動の「昭和40年不況」に直面して苦境に陥る。累積赤字は10億円に達し無配に転落、株価は最安値の56円をつけた。会社の資産売却だけでは足りず、自分の全財産を投げ出した。
67年、哲夫氏は社長を解任され、相談役の閑職に就くという辛酸を嘗めた。それまで哲夫氏を賞賛していた人々が掌を返したように冷たくなり、四面楚歌の状況に追い込まれた。この時の体験を後年、「いろいろあって、それで人間が見えるようになった」と皮肉っぽく語っている。
2年ほどたつと景気は回復。哲夫氏が策定した中期経営計画(3年計画)に沿うように事業が伸び始めた。これが哲夫氏を社長にカムバックさせる原動力となった。69年に復配。哲夫氏を支持してきた幹部たちの後押しで70年2月、社長に復帰した。
息子へ禅譲が批判を浴びる
40代の3年間で社長→相談役→社長と、天国から地獄、そして天国に戻った。こんな経験をした上場企業のトップは珍しい。
社長に復帰した哲夫氏は、持ち前の経営管理論を実践。84年に社名をHOYAに変更して、光エレクトロニクスの高収益企業に飛躍させ、中興の祖と呼ばれるようになった。だが、哲夫氏の経営者としての名声が高まれば高まるほど、創業家本流との関係はギクシャクした。
93年、茂氏の長男の衛氏に社長職を譲り、哲夫氏は会長に就いた。ところが、哲夫氏は2000年に会長を退く際に衛氏にも社長を辞めさせ、後任社長に自身の息子・洋氏を据えた。鈴木家による社長の椅子の継承である。
哲夫氏は米国流コーポレートカバナンス(企業統治)の信奉者であった。HOYAは03年、委員会設置会社に移行し取締役8人のうち社外取締役が5人、社内取締役3人という構成に変えた。
株主資本主義に立脚した米国流経営と、息子への社長のポストの禅譲には論理的に矛盾があると批判され、このことが後々まで尾を引くことになる。
創業者の孫が異議申し立て
そんな洋氏の経営力に対し、創業家一族から疑問の声が上がった。茂氏の孫で洋氏の従兄弟に当たる山中裕氏が経済誌で洋氏を痛烈に批判した。裕氏は東京大学経済学部在学中からM&A(企業の合併・買収)に興味を持ち、卒業論文のテーマは「戦前の製紙会社のM&A」だった。裕氏は米ボストンとニューヨークを拠点に投資銀行のパートナー(共同経営者)を務める金融のプロだ。その彼がマスコミに登場し「洋がトップでは、投資ファンドに目をつけられ、HOYAが買収される危険がある」と警告した。
10年6月の株主総会以来、毎年、10以上の株主提案を行ってきた。今年のHOYAの株主総会でも、恒例となった洋氏と裕氏の直接対決が見られた。裕氏は、洋氏など取締役6人の解任と、それに代わる取締役の選任を提案するなど18議案の株主提案を行った。株主提案はすべて否決されたが、役員報酬の個別開示は38.67%、取締役会議長と最高経営責任者の分離には35.07%の賛成票を集めた。
株主総会で毎年繰り返される内輪揉めは、名経営者と賞賛された哲夫氏の負の遺産といえるかもしれない。
(文=編集部)