北米販売の半分程度を占めるのは、4輪駆動SUV(スポーツ多目的車)のアウトバック(日本名はレガシィ)とフォレスター。受注から納車まで2カ月半~3カ月程度かかっている。販売に供給が追いついていないため増産体制をとる。米国工場の生産能力は現在、年間20万台だが、16年夏から年39.4万台に倍増する。増産が軌道に乗れば5年連続で過去最高を更新する。
吉永氏は昨年11月26日、早稲田大学で講演した。日本自動車工業会が主催し、メーカーのトップが大学に出向いて車の魅力を伝える「出張授業」の一環だ。吉永氏は世界販売が好調なことに触れ「このままいけば来年度は100万台になる」と述べた。講演後、報道陣に囲まれた吉永氏は「数値目標を掲げないが100万台の販売を続けられるだけの力をつけた」と自信をのぞかせた。
苦難の歴史
富士重工の前身は第二次世界大戦時の航空機会社、中島飛行機である。戦後、中島飛行機は解体。1953年に富士重工業に生まれ変わった。
苦難の連続だった。メインバンクの旧日本興業銀行の銀行管理の下、日産自動車グループに組み込まれた。興銀はみずほフィナンシャルグループに統合、日産は仏ルノーの傘下に入った。2000年に日産は富士重工の株を米ゼネラル・モーターズ(GM)に売却。GMの業績悪化に伴い05年10月、GMは富士重工株をトヨタ自動車に売却した。現在、トヨタが16.4%の株式を保有する筆頭株主だ。
トヨタとの提携交渉の窓口を務めたのが、当時執行役員に昇格し戦略本部副本部長兼経営企画部長に就いていた吉永氏だった。「トヨタにならないでください」。トヨタ名誉会長(当時)の豊田章一郎氏や社長(同)の渡辺捷昭氏ら首脳陣からこう言われたことを、吉永氏は今でも鮮明に覚えている。「スバルはトヨタ化するな。個性を失ってはいけない」とあえて助言してくれたと吉永氏は理解した。
個性を失えば競争優位性も喪失する。スバルはトヨタにはならない。これがスバルのクルマづくりの絶対のポリシーとなった。
規模を追わない
トヨタとの提携後、社長(当時)の森郁夫氏と吉永氏が二人三脚で取り組んできた構造転換の大きな柱が、米国市場へのシフトだった。
転換点は09年。主力車レガシィを全面改良したのを皮切りに、車体を米国市場に適した大型サイズに切り替えた。それまでの日本仕様では米国ユーザーの支持は得られないと判断した。レガシィ、インプレッサ、フォレスターの主力3車種で米国サイズのクルマが出揃ったことで、米国市場での販売が加速した。