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日本銀行法(日銀法)は1998年に抜本的に改正された。改正の最大の眼目は、中央銀行として金融政策について政府からの独立性を確保することにあった。金融政策にはインフレ的な経済政策を求める政府からの圧力が常にかかりやすいという、各国の苦い歴史を踏まえての改正だった。その結果、病気などの理由以外で総裁を解任できなくなった。また、主務大臣(大蔵大臣→財務大臣)による一般監督権もなくなり、旧法に比べて日銀の組織としての独立性は向上した。
ところが、通貨の番人を自負する日銀に、官邸が手を突っ込んできた。白川総裁の任期途中での辞意は、抗議の辞任だったことを歴史が証明するのではなかろうか。中央銀行のトップが政権と対立し、任期を全うできない(しようとしない)のは、まさに異常事態である。日本の経済ジャーナリズムは、この点に関して無頓着すぎる。
日銀総裁の任期途中の辞任は15年ぶり。1998年に発覚した大蔵・日銀の接待汚職事件以来だ。ノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭(ろうらん)」での過剰接待などが次々と明るみに出て、大蔵と日銀の権威が音を立てて崩れていった。日銀マンは銀行の接待にどっぷり浸かっていた。彼らは接待を海辺の水に例え「ざぶん」(小料理屋ですそに酒がかかる程度の接待)、「どぼん」(高級料亭や高級クラブでの酒に浸りきってしまう高額接待)という隠語で呼んでいた。接待の度合いで、銀行を格付けしていたのだろう。
史上初めて強制捜査を受けた日銀では、松下康雄総裁(大蔵出身)と福井俊彦副総裁(日銀出身)が不祥事の責任を取って引責辞任した。総裁人事は大蔵省出身者と日銀出身者が交互に務めるタスキ掛けが慣例だったが、この事件がそれを打ち砕いた。速水優総裁、返り咲いて総裁になった福井俊彦氏、現在の白川方明総裁と3代日銀出身者が続いた。
今回の日銀総裁、副総裁人事。日銀出身者は1人も入らない可能性を指摘する金融の専門家がいる。
白川総裁は途中辞任することで「せめて副総裁のポストを1つ確保したかったのではないか」という穿った見方も出ている。白川総裁がアベノミクスを、本音ベースでどう評価しているのか。白川氏の金融史上の位置付けは、この問題についての発言で決まる。最後っ屁と言われようが気にしないで、はっきり物を言え。
(文=編集部)
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