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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

意外と指揮者を悩ます、ベートーヴェン『第九』で合唱団はいつ入場すればよいのか問題

文=篠崎靖男/指揮者
意外と指揮者を悩ます、ベートーヴェン『第九』で合唱団はいつ入場すればよいのか問題の画像1
「Getty Images」より

「マエストロ、ソリスト歌手と合唱団の入りはどうしますか?」

 これは、ベートーヴェンの『第九』を演奏するときに、オーケストラの事務局から事前に必ず聞かれる質問です。ここで説明が必要となります。ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」は日本では『第九』と呼ばれ、俳句で12月の季語にもなるくらい有名な作品ですが、皆様がやはり思い浮かばれるのは、合唱団が堂々たるハーモニーを歌い上げ、オーケストラが伴奏している部分だと思います。確かにこの場所は、演奏時間が約70分かかる長大な交響曲の中で、一番有名な部分です。

 実際には、この『第九』の多くの部分はオーケストラのみの演奏で占められており、ベートーヴェンが、彼の生涯のすべてを捧げてつくり出した音楽が詰まっています。しかしながら、ソリスト歌手や合唱団が一緒に演奏する最後の20分間は、人間の創造力をはるかに超えたような、スケールの広い音楽の世界が繰り広げられ、観客の心を強く動かします。

 そして、こんなすごい音楽を書いてしまったベートーヴェンは、もう次の交響曲を完成させることはできませんでした。彼は、同じようなスタイルの曲を2曲と書かない作曲家だったので、これ以上のものをつくれなかったのだと思います。

 ドイツの一流オペラ劇場で長く活躍されたあと日本に帰国し、その美しいバリトンで聴衆を魅了し続けた歌手から、このような話を聞いたことがあります。

「コンサートで音楽を聴いているだけでも喉は疲れるんだよ。メロディーを聴いていると、歌っているのと同じように声帯を使ってしまうからね」

 歌手にとって声帯は楽器です。しかし、クラリネットのリードのように、使えなくなったからといって交換するようなことはできません。声帯が疲れてしまったら、もうその日はおしまいです。家に帰って喉のケアをして、早めに寝るしかありません。

 オーケストラのみが必死で演奏している50分間、ソリスト歌手と合唱団は椅子に座って聴いていることになります。しかし、彼らにとっては、これが大きな問題になります。前出のオペラ歌手の話と同じく、自然と声帯が動いてしまい、歌いだす頃には喉もカラカラになるかもしれません。特にコンサートホールは、しっかりと空調管理されており、少し乾燥しているので、咳が出そうになって大変な方もいるそうです。それでも、舞台上では水すら飲むことができません。

 指揮者としては、できれば曲の最初からすべてのメンバーがそろっていたほうがいいとは思います。ときには200名近くなることもある合唱団が入場するのには、かなり時間がかかってしまうので、やはりソリスト歌手や合唱団の途中入場によって中断し、音楽の集中が途切れることは避けたい気持ちもあるからです。

『第九』を歌う合唱団、みんなが喜ぶ入場のタイミングとは?

 ここで、合唱団がいつステージに入場すればよいのかという質問の話に戻ります。『第九』は4つの楽章からできており、ソリストと合唱団が歌うのは4楽章のみです。物理的には、4楽章の前に入場しても間に合いますが、大概は交響曲の真ん中あたりに位置し、タイミングもちょうどよい3楽章の前に入場することがほとんどです。ですから、冒頭の質問の答えは、「最初から」か「3楽章の前」という二者択一となります。とはいえ、そこにはいろいろな事情が入り込んでいるのです。

 僕も時には、事務局に「最初から入ってほしい」と言ってみることもあります。それにもかかわらず、演奏会直前の合唱団との練習の際に、大概は合唱指導者から同じ質問が来るのです。「マエストロ。合唱団は最初からステージに入ると伺いましたが、合唱団員には高齢の方々も多くて……」などと難色を示され、それでも「やはり最初から」とお願いしても、「マエストロのお気持ちはわかりますが……」と、なかなかまとまりません。指導者は「最初から舞台にいるのはつらい」という、合唱団の気持ちを代表なさっているからです。

 そこで仕方なく、「3楽章からでいいですよ」と許可を出します。実はこれは、4楽章からしか演奏しないオーケストラの打楽器奏者も、合唱団に紛れて入り込む場合も多々あるので、みんなが喜ぶ解決方法なのです。もちろん、これによって演奏が変わるわけではないので、聴衆の方々はご安心ください。むしろ、アマチュア合唱団の場合は、応援に来られているご家族が、オーケストラと同時ではなく、単独で入場してくる合唱団員一人ひとりのお顔をしっかりと見ることもできます。

 これは、ソリスト歌手にとっても同じようです。数年前になりますが、この話をあるベテランの女性ソリスト歌手にしたことがあります。すると「ソリストも最初から入っておいてほしいと指揮者に言われたことが何度かあったけれど、『第九』を1楽章からしっかりと聴いて、4楽章の出番で歌いだすのも、なかなかいいものなのよね」との返事でした。「じゃあ、明日の本番も1楽章から入りますか?」と言ってみると、「いやいや、それは……」という曖昧な返事。最終的には、やはり合唱団と一緒に3楽章の前に入っていただくことになりました。

 ソリスト歌手や合唱団には、やはり声帯を守って最高の声で歌っていただきたいので、僕は3楽章からの入場でお願いするのですが、演奏会後の打ち上げでソリストや合唱団員からは「3楽章が美しかったです」とか、「4楽章のマエストロの指揮には感動しながら歌うことができました」という話ばかりで、せっかくオーケストラが大名演をした1、2楽章に対するコメントがないことは、心から残念に思うのです。

 演奏会の休憩中に観客が一斉に咳込むのも、音楽のメロディーと一緒に声帯が動いているからと聞いたことがあります。ポップコンサートならば、時には一緒に口ずさんだり歌ったりすることができますが、クラシック音楽の場合は声を出すことはできないので、どうしても声帯に負担をかけてしまい、咳をしたくなるようです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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