オーケストラがベートーヴェンを演奏する“本当の”意味…楽団と指揮者の真価を暴く怖い存在
本連載の過去記事でも紹介しましたが、今年は作曲家・ベートーヴェンの生誕250周年です。この数年間、世界中のオーケストラは、あえてベートーヴェンをプログラムに入れずに、今年、一挙に演奏しようという企画が目白押しだったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大という特別な状況により、オーケストラだけではなく音楽界全体がストップしてしまいました。
現在、日本国内ではコンサートが再開してきているので、やっとベートーヴェンを聴いていただくことができそうです。しかし、ベートーヴェンはコンスタントに集客を見込めるオーケストラの“ドル箱”だっただけに、大きくもくろみが外れてしまいました。
話は変わりますが、オーケストラは大まかに、定期演奏会、名曲コンサート、音楽教室という3種類の演奏会があります。
まず定期演奏会というのは、自分たちで企画・運営をし、経済的責任も持ちながら、年に10回とか30回とか定期的に演奏します。定期演奏会には、オーケストラの個性を出しながら、演奏レベルを上げる役割があるので、スタンダートな曲だけではなく、新しい曲や演奏が大変難しい曲にもチャレンジします。そのために大掛かりなコンサートになったり、出演料が高い指揮者やソリストに依頼することも多く、収支は赤字覚悟です。しかし、オーケストラ活動の中心なので、お金よりもプライドをかけており、通常3日間のリハーサルの間、楽員の真剣な顔がいつも以上に怖くなります。
その次の名曲コンサートは簡単に言うと、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ブラームスなどの有名な交響曲に、モーツァルトのピアノ協奏曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のような名曲で構成されたプログラムです。常連客だけでなく、「たまにはクラシックもいいね」というたようなライトなファンにも楽しんでもらえるコンサートです。
もちろん、今回のテーマでもあるベートーヴェンも名曲コンサートの主役のひとりです。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」や、映画『のだめカンタービレ』(東宝)で一躍有名になった交響曲第7番をはじめ、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲も含めて、ベートーヴェンは大人気です。しかし、名曲コンサートでよく使われるからといって、定期演奏会ではあまりベートーヴェンの曲を取り上げないかというと、そんなことはありません。むしろ、オーケストラと指揮者の真価がわかってしまうような怖い存在といえます。もし、定期演奏会でベートーヴェンが入っているのを見つけたら、そこには大きな意味合いがあると思っていただいていいと思います。
最後の音楽教室というのは、子供たちの前で演奏して、オーケストラを聴いてもらうコンサートです。そのほかに、「依頼公演」というのもあります。現在、活動が多様化しているオーケストラですが、地方のホールやスポンサーの意向を受けたプログラムを演奏したり、時にはポップス歌手の伴奏を務めたりとさまざまで、合唱団が「自分たちの合唱指揮者の指揮で、オーケストラとベートーヴェンの第九を演奏したい」と依頼してくることもあります。
余談ですが、『第九』を依頼された団体の合唱指揮者が、当の合唱団にとっては最高の指揮でも、オーケストラにしてみると指揮が自己流すぎて「ちょっとどうか?」と首を傾げるような場合もあります。それでもオーケストラは、プロとして良い演奏をすることはもちろんです。もし、依頼主が演奏に満足してくれなかったら、次回から呼んでもらえなくなるかもしれません。音楽教室や依頼公演は、雇われて出演料を頂くので、その収益は定期公演を助けてくれる大事な仕事でもあります。
ベートーヴェンの莫大な遺産
上で紹介したうち、定期演奏会には毎回聴きに来られる定期会員もたくさんいらっしゃいますし、いくら有名な曲であっても、同じ曲をそんなにしょっちゅう演奏することはできません。大概のオーケストラでは、ひとつの作品に対して、だいたい5年に一度くらいの演奏頻度に抑えられており、ベートーヴェンのような超有名な作品であっても3年に一度くらいです。そのため、今年のベートーヴェンイヤーのために、この数年間、世界中のオーケストラがベートーヴェンを我慢してきたのです。
ベートーヴェンが生まれた250年前といえば、英国のジェームス・クック船長がオーストラリアを発見し英国領と宣言した年なので、考えてみればずいぶん昔の人物です。6歳になった年にアメリカが独立し、世界が激動し始めた時代に育ち、19歳の時にフランス革命のニュースを知ります。英国の植民地支配による重税に苦しんでいたアメリカの独立は、支配される側(アメリカ)が、支配する側(英国)に対する勝利なので、フランスの王侯貴族からの重税に苦しんでいたパリ市民を奮い立たせて、フランス革命に結びついたといわれています。
ベートーヴェンは、そんな時に青年時代を過ごしたのです。しかも、育ったドイツのボンは、啓蒙主義や自由主義の盛んな場所で、そこで「Alle Menschen warden Brueder(すべての人々は兄弟となる)」という、フリードリヒ・フォン・シラーの歌詞に出合ったのです。
当時、身分制度を理由に、一般民衆から富を吸い上げて優雅な生活をしていた王侯貴族にとって「兄弟」は「仲間」という意味なので、王も貴族も商人も農民もすべて同じ仲間になってしまうという、とんでもない歌詞でした。後年、ベートーヴェンは、まだまだハプスブルク王室が繁栄していたウィーンにおいて、その歌詞を最終楽章で高らかに歌い上げる交響曲第9番を発表したのですから、当時では変わった音楽家でした。
当時のヨーロッパでは、モーツァルトのように、王室や貴族のお雇い作曲家になるのが普通ですが、22歳でウィーンに移住したベートーヴェンは、持ち前の身分制度に対する反骨精神も手伝い、経済的に自立した初めての作曲家といわれています。しかし、実際のところは、「もうウィーンでは生活できないので、ドイツの地方都市の領主に雇ってもらうことにする」と言い出して、ベートーヴェン・ファンの貴族たちから、ウィーンに在住し続けることを条件に年金を出してもらうような、ちゃっかりした部分もありました。貴族に雇われることは嫌だが、貴族からの援助は厭わない面もあったのです。
とはいえ、それは仕方ありません。現在でも、作曲家が自立するのは大変です。そんなベートーヴェンなので、質素倹約に励むあまり、ひどい身なりで街を歩いて浮浪者と間違われて警察に尋問を受けるようなこともありました。しかし、その裏では、楽譜商と報酬についてガッチリと細かい交渉をするなど、本連載記事『貧困イメージの強いベートーヴェン、実は莫大な遺産を残していた』でも紹介した通り、オーストリア国立銀行の株券を持ち、死後、遺族が驚くような多額の遺産を残したそうです。
しかし、それ以上の大きな遺産は、9曲の交響曲、5曲のピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、32曲のピアノソナタ、16曲の弦楽四重奏やオペラ、宗教曲、器楽ソナタ、器楽ソナタという、考えられないくらい多くのすばらしい作品であることはもちろんです。
(文=篠崎靖男/指揮者)