07年4月に鈴木敏文・セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長、同年11月に田淵節也・野村證券元会長、10年11月に西岡喬・三菱重工業相談役、11年9月に室伏稔・元伊藤忠商事会長が登場する。
時代の流れのなかで、名経営者と評された人が馬脚をあらわすことがある。執筆後、時間をおかずに亡くなれば、あれこれ批判されることはないが、時間の経過とともに評価が変わる経営者が出てくるのは、やむを得ないことなのかもしれない。
14年3月に岡村正・東芝相談役が執筆している。その後の東芝の凋落ぶりを目の当たりにするにつけ、“負の履歴書”に見えてしまうから不思議だ。
01年6月に登場した飯田亮・セコム創業者兼最高顧問は、現在でもセコムに君臨している。06年12月の渡辺恒雄・読売新聞グループ本社主筆は、安倍晋三首相の精神的支柱といわれている。15年10月の葛西敬之・JR東海名誉会長は、今でも代表取締役名誉会長としてJR東海を牛耳っており、経済界の安倍首相応援団長といわれている。
12年9月の今井敬・新日本製鐡名誉会長と、同年7月登場の茂木友三郎・キッコーマン名誉会長は、安倍首相と会食したりすることが多い財界人であり、「最近、今井氏の存在感がとみに高まっている」(永田町筋)ともいわれている。
03年4月の伊藤雅俊・イトーヨーカ堂名誉会長、04年3月の岡田卓也・イオン名誉会長という、日本の流通業界の先達や、01年1月の樋口廣太郎・アサヒビール名誉会長、02年1月の小倉昌男・ヤマト福祉財団理事長といった、ひとつの時代を築いた経営者が『私の履歴書』を書いている。アサヒビールは瀬戸雄三・元会長が11年5月に、福地茂雄・アサヒグループホールディングス相談役が14年6月に書いている。
一方、トヨタ自動車は14年4月の豊田章一郎・名誉会長以外は2000年以降、登場していない。
また、名バンカーとされ銀行一筋だった人が何人かいるが、いずれも執筆を断っている。古くは、家柄(氏素性)を気にして何度も執筆を断ったバンカーがいたが、金融機関のなかでも有力都銀は、生きた本物の履歴書を書きにくいといった事情があると指摘する声もある。
『私の履歴書』の呪いが復活したことで、4月以降に執筆を受諾する勇気ある経営者が何人、出てくるか興味深い。
過去の例でみると、もっとも多い年で12人中6人、経営者が顔を見せている年がある。それは02年で、前出の小倉昌男氏のほか、後藤康男・安田火災海上保険名誉会長、中邨秀雄・吉本興業会長、石川六郎・鹿島名誉会長、岡田茂・東映相談役、ルイス・ガースナー米IBM会長である。
(文=編集部)