「例えば、クラック(ひび)が起きるといった課題を、ある混ぜ物の配合でクリアすることができるんですね」(同)
約1年半の研究の末に誕生したのが、有機ガラス系の新素材である。業界初となる有機ガラス系新素材による便器の開発に「GO」サインが出たのは、それからさらに1年後である。
「本物を超えた“本物”」で実験
材料開発にメドがつくと、次はいよいよ樹脂製便器の開発である。技術陣は、「汚れにくい便器」ではなく「汚れない便器」を目標に掲げた。というのは、慣れ親しんだ陶器の便器を樹脂製便器に買い替えてもらうには、消費者に「あっ」と言わせるサプライズがなければいけないからだ。「あ、それほしい」と思わせる強い動機がなければいけない。
「陶器製便器では、到達できない高い目標に、思い切ってチャレンジしたんです。単に進化した便器では、お客さんに振り向いてはもらえませんからね」(酒井氏)
樹脂製便器は陶器の便器に比べて、汚れの原因となる水アカがつきにくい。これは、樹脂製便器の最大の利点だ。しかしながら、樹脂は陶器に比べて、ブラシで掃除をすると傷がつきやすいイメージがある。
有機ガラス系素材はブラシで傷はつかないのだが、樹脂の傷つくイメージが避けられないとすれば、思い切ってブラシ掃除が不要なトイレをつくればいいのではないかと発想した。つまり、「汚れない便器」である。研究の道筋は定まったが、その実現に向けて技術者たちは苦闘する。
なにしろ、研究対象は便器である。研究は自ずと“糞尿譚”にならざるを得ない。まず、人糞の研究から始めたのである。大きさ、比重、粘性、排出量など異なる条件を設けて便器に落とし、どれぐらい汚れるかを確認する必要がある。それに、汚物の便器への付着具合なども観察しなければいけない。技術者たちは、5種類の“人工便”をつくった。
「まさか、実験に本物を使うわけにはいきません。そこで、人糞に近い“人工便”をつくることにしたんですね。それは、簡単ではありませんでした。試行錯誤の末、柔らかさの異なる5種類の実験用の便をつくったんですね」
こう“トイレの強兵”は語る。
「どんな材料で“人工便”をこしらえたんですか」と聞くと、「材料は秘密です。色もついており、赤色が残ったら油汚れ、青色が残ったら水アカ汚れというように、便器に残った様子を可視化できるんです」としたうえで、「人工便の開発者は、『俺は本物を超えた』って胸を張っていますよ」と“強兵”は笑うのだ。
さらに、人が排便するのと同じ状況を再現するため、なんと“人口肛門”すなわち袋状の“排便マシン”まで製作した。5種類の人工便と排便マシンを使って、実験が重ねられた。
また、泡の研究も行われた。水を流す際に泡を発生させて、汚れを落とそうというのである。汚れを落とすには、どんな泡が適しているか、さまざまな条件のもとで実験が行われ、データが蓄積された。
「その際、便器についた人工便を水で流すシーンを高速度カメラで映し出して、落ち具合を徹底的に研究したんですね」(酒井氏)
結果、5ミリ大の大きな泡がもっとも効果的に汚れを落とすことがわかった。ただし、大きな泡だけでは、小さな汚れは落ちない。そこで、中性洗剤を使って直径60ミクロンの小さな泡を発生させることにした。
「はじめに大きな泡、あとから小さな泡が汚れを落とす仕組みです」(同)
さらに、上からグルリと旋回させ、勢いよく流しきる「3Dツイスター水流」が開発された。それによって、洗浄力と節水の両立が図られた。
技術者たちは、小便の汚れにも挑戦した。意外に知られていないことだが、男性が立小便をすると、便座のフチや床、その周囲にびっくりするくらい尿が飛び散る。トイレをきれいに保つには、尿の“ハネ、タレ、モレ”の3つを防ぐ必要がある。
まずは、“ハネ”である。小便の落下の反動で尿が飛び散って周囲を汚すのであれば、泡のクッションで尿を受け止めればいいのではないか。技術者たちは、泡で飛び散りをおさえ、床や壁などへの汚れを抑制する“ハネガード”を開発した。ボタン操作などで便座を上げると自動で水位が下がり、水面全体に泡が出てくる仕組みだ。
加えて、便器の外側に高さ3ミリのフチを設け、尿がフチに当たって垂れるのを防ぐ“タレガード”を開発した。また、男性が座って小便をしても、便さと便器の隙間から尿が漏れだすのを抑える「モレガード」を開発した。
一体成形によるつなぎ目のないトイレ
樹脂製便器の開発過程では、設計、生産のプロセスにおいても、技術革新がもたらされた。モノづくりは、お家芸である。本領発揮といっていい。
生産の技術革新のポイントは、「インジェクション成形機」を用いた射出成形にあった。樹脂を加熱して溶かし、金型に送り込んだあと、冷やして成形する。複雑な形状の製品を連続して大量に製造するにあたっては、当初、歩留まりが大きな課題だったが、創意工夫を重ねることにより、それも次第に改善された。
現在、「アラウーノ」(パナソニックの樹脂製便器の商品名)は、愛知県の幸田工場で生産されている。「インジェクション成形機」によって、側面のスカートと呼ばれる部分、水がたまるボールの部分、便座が乗るリムの3つを自動で一体成形し、つなぎ目のない便器がつくられている。この一体成形には、パナソニックの高い樹脂技術が活用されており、簡単に他社はマネできないと、酒井氏は自慢する。
このほか、樹脂化によるメリットは、重量が半減したことだ。約40キロだった陶器製便器に比べて、有機ガラス系新素材の「アラウーノ」の重さは、約20キロになった。結果、組み立ての現場における負荷軽減がもたらされた。
温水洗浄機能やリモコン、ターントラップ部分など、各パーツの組み立ては、セル生産方式で行われている。工程を担当するのは、多くが女性従業員だ。
「工場で組み立てを担当する従業員は、ほとんど女性なんですね。軽いということは、大変なメリットです。それから、物流費も安く抑えることができました」(酒井氏)
さらに、強調すべき点は、材料に樹脂を使うことにより、成形がしやすく、思った通りのデザインを表現できるようになったことだ。初代「アラウーノ」のデザインは、プロダクトデザイナーの深澤直人氏である。
「横から見ると、便器とフタがピタッと直線になっています。見た目がシャープなんですね。陶器では、こうはいきません。焼き上がりで収縮するため、プラスマイナス10ミリくらい、許容しなければならないからです」(同)
海外に渡る日本発の樹脂製便器
業界初の樹脂製便器「アラウーノ」は現在、既存商品を置き換え、着実に売り上げを伸ばしている。便器の市場規模は、年間約300万台といわれている。そのうち、高級市場とされるタンクレス型が年間40万台から50万台。パナソニックは、高級便器市場でナンバー1の座にある。
「住宅のリフォームの際、ご自分で便器を選ばれる方が買ってくださっています」(酒井氏)
ただし、少子高齢化により国内の住宅関連事業は、縮小が見込まれる。実際、国内の新築住宅着工戸数は以前ほど多くはなく、今後も改善する見通しはもちにくい。となると、期待がかかるのは海外市場だ。
パナソニックは、すでに中国と台湾で温水洗浄便座の販売強化に乗りだしている。現在、中国での普及率は1%に過ぎないが、今後の生活水準の向上にともなって、需要拡大が見込まれている。
「厳しい日本の市場で鍛えられていますから、海外市場にも十分に通用すると考えています」(同)
考えてみれば、創業者の松下幸之助は、家庭内に電気の供給口がひとつしかなかった時代に、電灯と電化製品を同時に使用できるアタッチメントプラグ(二股ソケット)を考案した。考案したのはいいが、幸之助は肝心のソケット材料の配合を知らなかった。よその工場に聞いてまわったが、どこも秘密にして教えてくれなかった。そこで、配合の秘密を探ろうと、捨てられている原料のかけらを拾いにいったところ、大目玉をくらったというエピソードが残っている。
一役かったのは、幸之助夫人のむめのさんである。むめのさんは、工場の周辺から、かけらを拾い集めてきた。そんな努力の末、幸之助はソケット材料がカーボンと石綿などの練り物であること、そして、その最適な配合を探し当てた。
幸之助の研究成果を発端とする松下の樹脂技術は、その後、家電製品や雨どいなど、さまざまな分野に使用され、家電王国の建国に少なからず寄与してきた。
つまり、幸之助以来のモノづくりの伝統は、樹脂製便器に至るまで脈々と受け継がれているといっても過言ではない。もっとも、二股ソケットがトイレ革命を引き起こす原動力になるとは、幸之助も想像だにしていなかっただろう。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)