厳しい男性職人の世界として知られる寿司店。そんな世界の中、女性寿司職人たちが本格江戸前寿司を提供する「なでしこ寿司」が、“オタクの聖地”東京・秋葉原にオープンしたのが2010年。出店当初は、男性寿司職人が客として冷やかしに来たり、仕入れに出向いた市場で怒鳴られるなど、さまざまな苦労があったという。そうした苦労を乗り越えた現在では、立地場所のイメージとは裏腹に、本格的な寿司や豊富な小料理をリーズナブルに、そして職人とのコミュニケーションを楽しみながら味わえると、人気を呼んでいる。
そんななでしこ寿司のマネージャーで店長の千津井由貴氏に、
「なぜ男性職人の寿司の世界で、あえて女性職人のみのお店を始めたのか?」
「開店から今に至るまでのさまざまな苦労」
「なでしこ寿司、人気の秘訣とは?」
「女性ばかりの職場をうまくマネジメントしていくための、苦労と工夫」
「寿司職人という仕事の厳しさと醍醐味」
などについて聞いた。
–なでしこ寿司をオープンされたきっかけはなんですか?
千津井由貴氏(以下、千津井) なでしこ寿司を運営するプロフィティ株式会社は、半導体関連の人材派遣会社です。2008年秋に発生した世界的な金融危機の影響を受け、企業が経営悪化などを理由に派遣社員の契約を一方的に打ち切る、いわゆる「派遣切り」が大きな社会問題となりましたが、同社でも所属する派遣社員の多くが職を失いました。男性への求人はその後1年くらいで回復したものの、女性への求人はなかなか回復せず、逆に厳しさを増したといってもいいほどでした。その背景には、いずれ結婚して辞めるからとか、体力が不安、出産や育児などで続かないというような、女性に対する日本的な考え方があるからだと思います。そこで、そういう風潮を打ち破り、「女性でも頑張ればできる」ということをもっと社会にアピールすることで、女性の雇用機会を増やしたいという思いからオープンしました。
–なぜ、お寿司屋さんだったのですか?
千津井 女性が進出していない職場を見てみると、「男しか務まらない」という常識にとらわれている場合が多いのです。そういう職場にも女性が労働力として踏み込んでいかなければ、将来女性の雇用先がなくなってしまうという危機感を持っていました。そこで、典型的な“男の職場”であるお寿司屋さんの世界に参入することを決意し、10年10月1日、本格的な江戸前寿司を女性が握る日本で初めてのお寿司屋さん、なでしこ寿司を秋葉原にオープンしました。
–秋葉原を出店場所に選んだ理由はなんですか?
千津井 開店した当時、秋葉原は駅周辺の再開発が進むとともに、映画化もされたテレビドラマ『電車男』(フジテレビ系)などの影響から秋葉原発の “萌え”にマスコミなどが注目し始め、さらにアイドルグループ・AKB48がデビューしたことなどから、それまでの電気街からいわゆる“オタクの街”へと変身し、流行の情報発信基地として世界から注目され始めていました。
そういう世界が注目する街で、女性だけのお寿司屋さんという話題を提供し、とにかく認知度を上げたいと思ったからです。そして、最初は興味本位で来ていただいたお客様でも、一度食べていただければ、普通のお寿司屋さんとまったく変わらないということを理解してもらいたいと思ったわけです。もし新宿とか渋谷にオープンしていたら、ガールズバーの寿司屋版と見られて、それほど注目されなかったと思います。
–開店当時の状況はいかがでしたか?
千津井 秋葉原という土地柄、よく“萌え寿司”と間違われましたね。それで、「どうせ間違われるなら」と、私たちもセーラー服を着て握ったこともあります。すぐにやめましたけれども(笑)。それから、「本当に握れるのか」「裏でロボットが握っているのではないか」というようなことも言われました。なかなか自分たちが本当に握っていて、本格的なお寿司を食べてもらいたいと思っているということを理解してもらえなくて、最初はとても大変でした。
そんな状況が少し好転したのは、11年7月にサッカー日本女子代表の“なでしこジャパン”がワールドカップで優勝し、日本中がそのニュースに湧き、同じ“なでしこ”つながりということからメディアがたくさん取材に来てくれて、私どもも恩恵にあずかったわけです。その後もいろいろと改革を重ね、自分たちでは順調だと思っていますが、Webサイトでの書き込みなどを見ると、評価は厳しいですね。まだまだ、やることはたくさんありそうです。今後もいろいろと認知度向上のための試行錯誤を繰り返しながら、本格江戸前握り寿司を目指していきます。
–お客様は、どのような方が多いですか?
千津井 やはり圧倒的に男性、それもサラリーマンの方が多いですね。残念ですが、女性はまだまだ少ない。また意外ですが、秋葉原なのに不思議とオタクの方々もそれほど多くはありません。なでしこ寿司に“萌え”を求めて来るのではなくて、メイド喫茶に行く前の腹ごしらえという感じで来ていただけるオタクの方々はいますが……。また、複数で来られるよりも、おひとりで来られるお客様が多いです。
–なでしこ寿司に、お客様は何を求めているのでしょうか?
千津井 「世界中の人に、旬のおいしいお寿司とおもてなしのサービスを提供すること」、これが私たちのミッションです。会話したいというだけであれば、やはり秋葉原ではみんなメイド喫茶に行きます。お寿司を食べたいだけであれば、チェーン店の回転寿司屋さんも含めてたくさんあります。私どものお店に来てくれる人が求めているものは、目の前の女性スタッフがつくったおいしい料理を通して、楽しい会話ができるということだと思います。ですので、お寿司の格好をしていればそれでいいというわけではありません。お客様はコミュニケーションも楽しめるし、旬のものを味わいたいと思って来ていただいていると考えています。
お客様とのコミュニケーションが大切
–ところで、千津井さんはなでしこ寿司の開店当初からの社員ですが、入店されたきっかけはなんでしょうか?
千津井 美大を卒業してから百貨店に就職したのですが、だんだん仕事がわかってくると、将来自分がたどる道はすでにある程度決まっていて、その決まった道をただ歩いていくだけなのではというように思い始め、このままでいいのかと悩んでいました。そんな時期に転職サイトでなでしこ寿司がオープニングスタッフを募集していることを知ったのです。もともと魚は好きですし、デパ地下の寿司店でアルバイトをしていた時に「女性だから」という理由で絶対握らせてもらえなかった寿司を握れるならと応募しました。
–お寿司の握り方は、どうやって覚えたのですか?
千津井 ベテランの寿司職人に教わりました。その方は男性でした。握ること自体は、たとえばダンスの振りを覚えるのと同じで、毎日繰り返せばそれほど難しいことではありません。それ以上に、カウンターを挟んでお客様とどういう会話をすればいいのか、その内容だけでなく、間合いなどまで含めて覚えるのは大変でした。お客様に楽しく食事をしていただくためには、やはりコミュニケーションが大事です。それから、些細なことですが、お客様がお寿司を口の中で味わっている時には話しかけないとか、左利きの人にはお寿司を左向きに出すとか、そういう気遣いも、とても大切なことです。なでしこ寿司では、そういう寿司職人として最低限備えていなければいけない技術について研修を受け、社内テストに合格しないとカウンターには立てません。
しかも、お寿司屋さんの仕事は営業時間中だけではなく、朝早くに市場に仕入れに行き、買ってきた魚をさばいて仕込むことや、酢飯(シャリ)をつくることなど、たくさんあります。しかもずっと立ちっぱなしです。そういう一連の仕事を覚え、その上でお客様と会話しながら寿司を握る、このような技術をすべて覚えるには最低でも10年はかかるともいわれており、私もまだまだ勉強中です。
–魚市場には、毎日仕入れに行くのですか?
千津井 基本的に毎日行きます。今は仕入れ担当が分担してやっていますので私は行きませんが、私が担当していた時には、髪の毛に飾りをつけてピンクの服を着て行ったりすると、何かチャラチャラした感じで見られて、「邪魔だよ」とかよく怒鳴られました。女性の仕入れは珍しかったからでしょうね。でも、慣れてくれば、まったく問題ないですよ。
–寿司職人になる前となった後で、以前抱いていた寿司職人という仕事のイメージとギャップのようなものを感じましたか?
千津井 会社勤めをしていた時には、すでに決められたやり方や仕組みに従って物事を進めればいいわけですが、お寿司屋さんには「ここでは、こうやればいい」という決まったやり方や仕組みがないことですね。だから、お客様お一人お一人が楽しく食事できるように、臨機応変に対応しなければなりません。教わったことの応用が利かなければダメですね。
男性寿司職人が、客として冷やかしに来たことも…
–今までの仕事の経験の中で、印象に残っていることは何ですか?
千津井 「女が握った寿司は食べない」という考え方を持った同業の寿司職人が、冷やかしに来ることがあります。そういう方は、腕を組んで私たちの様子を見ているわけですよ。そして、握りは食べず、頼むのはつまみだけ。そのような方が何回か“視察”に来られた後で、「マグロを握ってください」と注文してくれた時には涙が出そうになりました。
–悔いが残るような大きな失敗はありますか?
千津井 マネジャーという立場ではあったものの、まだ経験が浅かった時期に、大きな失敗を犯してしまいました。ある方に接待で使っていただいた時に、お客様を下座に通してしまいました。まだ接待の決まり事などについては何も知りませんでしたし、それにカウンターの上座・下座さえも知りませんでした。さらに、そのお客様が薬を飲む時に、常温のお水を出すべきところを、氷水を出してしまいました。その時には、お客様にめちゃくちゃ怒られ、部下たちも見ている前で土下座してお詫びしました。今でも悔しいです。
–寿司職人にとって最も必要なスキル、ノウハウは何ですか?
千津井 どの仕事も同じだと思いますが、気力とモチベーションだと思います。人は寒くなると判断力が低下するといわれていますが、寿司店は寒いし立ちっぱなしなので、そういう中で的確な判断をするために、常に気力とモチベーションを高めておかなければなりません。そうしなければ、自分の最高のパフォーマンスを出すことはできませんから。
–寿司職人としての醍醐味は何ですか?
千津井 寿司屋では、寿司職人とお客様がカウンター越しに1対1で話をしながら食事を組み立てていくわけですね。ですので、お客様一人ひとりで握る寿司のネタや順番が違うこともあるわけですよ。こちらが順番を考えていても、お客様から旬の魚やその日のお薦めを聞かれ、それによってネタの構成を変えなければいけない時もあります。そういうお客様とのやりとりがうまくいって、そのお客様が常連になってくれた時は醍醐味を感じますね。
–スタッフに寿司店で働いた経験のある方はいるのですか?
千津井 握っていた人はいません。どちらかというと飲食業界で働いていた人が多いですね。最近は東京すしアカデミーというお寿司の専門学校を卒業した女性を採用しています。
寿司職人の重要な仕事の7割~8割は、お客様とのコミュニケーションです。私は、女性のほうが男性よりもコミュニケーション能力という面では優れていると思っています。だから、寿司職人は女性でもできる仕事だと思っているのですが、現実には女性の寿司職人は本当に少ない。それは、これまでは寿司職人になろうと思っても機会が与えられなかっただけです。
ある種の不文律のようなもので、特に何か決まったものがあるわけではないのに、いつの間にかそうなっていて、誰もそれに疑いを持たない。「女性は体温が高いので生ものを握るにはふさわしくない」というようなことを言う人もいますが、まったくナンセンスですね。最初は何もできなくても、やる気さえあればできるようになる、これはどの職業でも言えることだと思いますよ。
寿司店の概念を変える
–女性が握るという点のほかに、なでしこ寿司ならではのサービスや特徴はありますか?
千津井 お客様同士のコミュニケーションも円滑にして、なでしこ寿司を基点として人と人を結びつけるのも私たちの大事な仕事の一つだと思っています。だから、人と人が結びつくようなイベントをたくさん企画しています。最近は、お客様と一緒に神田祭や天の川を見に出かけ、その後にお店で寿司セットを出すとか、お客様と寿司職人とが握り対決をするというようなイベントを開催しました。お客様の話を聞くと、結構仕事に一生懸命な独身男性のお客様が多いので、こういうイベントは喜んでもらえますね。それに、私たちとしても楽しいです。
–お寿司屋さんの概念を、まったく変えてしまうようなイベントですね。
千津井 変えすぎて、叩かれて、痛い思いをしたこともあります。それから、寿司カレー、サーモンユッケ、マグロサラミのような、なでしこ寿司ならではのメニューも開発しています。ほかにも、土日だけですが、手づくりのケーキやお菓子もメニューに載せます。自分たちでメニューをあれこれ考えるのも楽しみの一つです。
–職場のチームワークやコミュニケーションを良くするために、独自に取り組んでいることはありますか?
千津井 誕生日にケーキをプレゼントするとか、いろいろな機会にスタッフへの差し入れをするようにしています。女性は男性以上に現実的なところがありますからね。それから、適材適所の人材活用を常に意識しています。男性だけの会社は男性のリーダーの下にまとまり、個を犠牲にしても全体を考えますが、女性の職場では、個々人の売り上げの集合体として全体の売り上げがあるというように考えます。つまり、個々に成果を上げようとするわけですよ。女性だけの職場をまとめていくには、そこがすごく難しいですね。だから、それぞれの特性を生かした配置をしてまとめていかないと、バラバラになってしまいます。個々人の適性を見いだし最適配置することは、店長である私の大事な役割でもあるのです。
–最後に、千津井さんご自身の夢を聞かせてください。
千津井 回転寿司もほんの少し前まではいろいろ言われていましたけれども、今ではしっかりと市民権を得ています。寿司屋というのはお寿司のお皿が回転するものだと思っている小さい子どもも少なくありません。逆に言えば、カウンターに座って寿司職人と会話を楽しみながら食べるというお寿司屋さんを知らない若い方が増えていると思います。しかも、お寿司屋さんでの接待も昔は一般的でしたが、今の時代は減ってきていますね。
なでしこ寿司が注目を浴びて、若い人がどんどんお寿司屋さんに来るようになり、カウンターで寿司職人と会話しながらお寿司を食べるという、そういう日本の文化を取り戻せればいいなと思います。なので、最初はあまり期待せずに気軽に来ていただいて、お店の雰囲気を味わっていただきたいと思います。そして、お寿司を味わいながら、寿司職人との会話を楽しんでください。
–ありがとうございました。
(文=編集部)