「アメーバ経営」を一言でいえば、小集団部門別採算制度に基礎を置いた全員参加型の分権的経営システムのこと。従業員の経営参加意識を持たせてモチベーション向上を狙った。企業組織を数名~50名程度のメンバーからなる自律的小集団の「アメーバ」に細分化し、効率性が徹底的にチェックされるシステムであると同時に、責任が明確であり、細部にわたる透明性が確保されている。各アメーバがお互いに協調、競争することでリーダー育成と継続的な創意工夫を促すとともに、経営環境の変化に即応できる体制をつくり、必要に応じて、分裂、新設、廃止が行われる。その様が細胞分裂を繰り返し、増殖するアメーバに似ていることから、この名が付いた。それを支えているものとして「京セラ会計学」なるものがある。稲盛氏は技術畑出身だが、経営における会計の重要性を次のように強調している。
「会計とは、企業経営において目標に到達するための“羅針盤”の役割を果たすものであり、企業経営にとって、なくてはならない重要なものです。そして、会計上の問題であっても、常にその本質にまでさかのぼって『人間として何が正しいか』をベースに正しく判断することが重要です。また、真実をありのままあらわすことが会計のあるべき姿であり、公明正大でしかも透明性の高いガラス張りで経営することが大切です。京セラ会計学は、会社の実態とその進むべき方向を正しく把握するための実践的な会計原則となっています」
アメーバ経営の部門別採算制度においては、簡易管理会計システムである「時間当り採算」でアメーバが相互に比較される。製造部門は「(総生産-経費)/総時間」、営業部門ならば「(総収益-経費)/総時間」で算出。総時間はアメーバの定員の総労働時間に共通部門人員の応分を加えた時間である。総生産、総収入を最大化し、経費と総時間を最小化するのが目標。
アメーバ経営の求心力になっているのが「京セラフィロソフィ」。この基本思想があるからこそ、経営者感覚を持った人材の育成が可能になる。つまり、アメーバ経営は、人材育成を究極の目標として、組織、管理会計、トップの経営哲学が補完的に影響し合うビジネスシステムであると言えよう。このような経営理念と管理会計を強く関連させる考え方は、欧米の管理会計の議論ではほとんど見られない。
経営学の諸分野やマスコミにおいてアメーバ経営が注目され、「アメーバ経営を導入すれば必ず業績が向上する」という「アメーバ経営万能論」ともいえる思い込みが生まれた節もある。経営学には、優れたビジネスシステムを導入しても必ずしも成功するわけではない、という研究成果がある。トップのリーダーシップ、組織風土、社内パワー、教育訓練体制、新旧システムの調和など、さまざまな因子との整合性により、ビジネスシステムの長所が発揮されるか否かが決まる。経営理念と相性の良いビジネスシステムが稼働してこそ、企業は順調に成長を遂げられるのである。
ワンマンなカリスマ経営者に見られている稲盛氏が、強いリーダーシップに基づくトップダウン経営ではなく、集団経営方式を強調するのは矛盾しているようだが、自分がいなくなったとき、京セラをどのように経営していくべきかを若い頃から探究してきたようだ。
●合理性だけで経営を考えること自体が合理的でない
その背景には、創業間もない頃に起こった労働争議から得た教訓がある。ファインセラミックス技術を世に問いたいという自己実現のために、稲盛氏は起業し研究開発に没頭していたが、社員たちはその思いを理解せず、ついてこなかったのだ。稲盛氏は経営者の孤独を経験していた。そこで、社員になんのために働くのかを自覚してもらう目的で、「京セラフィロソフィ」として結実することになる稲盛氏の経営理念を、ビジネスシステムに落とし込むことにした。そして誕生したのがアメーバ経営なのだ。
経営はシステムだ、経営は人だ、経営は理念だ、など持論を唱える経営者は多い。稲盛氏の経営哲学については「稲盛教」と揶揄する人もいる。たしかに、その言葉の響きからは、経営の非合理性を極めて重んじているようにもとれる。しかし、思想家である以前に稲盛氏は、経営の合理性を重んじる極めてプラグマティックな経営者である。これまでも稲盛氏は、JALだけでなく三田工業など数々の企業を立て直した。
稲盛氏も完璧な存在ではない。それは、稲盛氏自身が最もよく認識している。他の創業経営者と同様、経営においても過激な部分が垣間見られる。その部分をクローズアップし、「京セラは元祖ブラック企業」とする指摘するジャーナリストもいることは承知している。そのような見方があることを踏まえながらも、念頭に置いておかなくてはならないのは、ベンチャーとして誕生し、無理に無理を積み重ねてきたからこそ急成長してきた歴史だ。豊かになった現在の基準から見れば、急成長した日本企業のほとんどが、かつてはブラック企業だった。
かといってブラック企業を肯定しているわけではない。「ビッグデータ」が注目され、ビジネス誌などで「ハウ・ツーもの」が台頭している今こそ、浅薄な合理性追求にとどまらず、リーダー教育において「ビジネス・リベラルアーツ」の重要性を再考すべきではないか。
非合理性と合理性の両方を理解し、そのバランスを保ちながら歳を年ねている稲盛氏からは、新しい時代に向けて模索している日本企業の未来を考える上で大きなヒントを得られるのではないだろうか。後継者育成、後継者候補に悩んでいる経営者、そしてリーダーになろうとしている人にとって、稲盛氏がビジネスシステム構築にかけた情熱と行動の軌跡は大いに参考になる。稲盛氏を「合理的」「思想家的」のいずれかの側面だけを見ていると大きな学びを見落としかねない。経営者、ビジネスマンの基礎力として合理性は必須だが、合理性だけで経営を考えること自体が合理的でない–これが稲盛氏から学べる点ではないだろうか。
どのような地位にあれ、すべての人は長所と短所を持つ。欠点ばかりに目を向け、人に指を指していてばかりいても得るものは少ない。長所に学びあり–このような人びとの思いがベストセラーの背景にはあるのではないだろうか。
(文=長田貴仁)