タッチすら不要でバスに乗車…JCBとりそなが実用化へ、Suicaの牙城は崩れるか

●この記事のポイント
JCBとりそなHDは2026年秋、UWB無線技術を用いた路線バスの「手ぶら決済」実証実験を開始する。小田原機器と提携し2028年度以降の実用化を目指す。背景には熊本5社が更新費用(約12億円)を理由に交通系ICカードから撤退した事例がある。Suica一強だった交通決済インフラの勢力図が変わる可能性を分析する。
2024年11月15日、熊本県内でバスや電車を運行する九州産交バスなど5社が、Suicaをはじめとする全国交通系ICカード(通称「10カード」)の運賃決済への対応を打ち切った。全国交通系ICカードが普及して以降、事業者側から利用を取りやめた例としては全国初とされる出来事だった。
理由は明快で、「お金」だった。5社が使っていた交通系IC対応の運賃機器が更新時期を迎え、そのまま維持すれば5社合計で約12億円かかる一方、交通系ICに対応しない新型機器に切り替えれば約6.7億円で済む見通しだったと報じられている。国土交通省のキャッシュレス化支援策は新規導入時の補助はあっても更新時には手薄で、コロナ禍からの回復途上にあった地方交通事業者にとって、差額の負担は看過できないものだった。
背景には、交通系ICカードが準拠する「サイバネ規格」特有のコスト構造がある。JR東日本系列からの機器調達や規格維持のための会費など、固定費的にのしかかる要素が多い。2014年の那覇市議会資料では、独自規格なら導入費27億円・年間運営費5000万円で済むところ、交通系IC対応にすると導入費は倍、運営費は4倍に膨らむという試算も示されていた。熊本の事例はこうした構造的な負担が限界点に達した象徴であり、その後も広島県など「第二の熊本」となり得る地域の存在が指摘されている。
●目次
タッチ決済の次に来る「手ぶら決済」
この費用問題への一つの解が、Visaなど国際ブランドの「クレジットカードタッチ決済」だ。汎用の国際規格を使うため専用端末が比較的安価で、2025年12月時点で全国190以上の公共交通事業者、44都道府県で導入または導入表明済みとされ、単一市場での普及規模としては世界最大級だとVisaは説明している。
その先の一手として、JCBとりそなホールディングス(HD)が動き出した。両社は2026年3月4日、「UWB(Ultra Wide Band、超広帯域無線)」技術を用いた決済の事業化に向けた基本合意書を締結。スマートフォンをかばんやポケットから取り出さずに支払いが完了する「ハンズフリー決済」の実用化を目指すもので、両社によれば決済事業者によるUWB実用化の取り組みとしては世界初という。
そして7月、この技術を路線バスに応用する計画が明らかになった。JCBとりそなHDは、大手運賃機器メーカーの小田原機器と組み、今秋にも大手私鉄グループのバス路線で実証実験を開始する。目標は2028年度以降の実用化。日本経済新聞は、2001年のSuica登場によるタッチ決済普及以来、四半世紀ぶりに業種をまたいだ交通決済インフラの主導権争いが始まったと位置づけている。
UWBはNFC(近距離無線通信)よりも広い範囲で、かつ高精度に端末の位置を特定できる技術で、りそなの発表によれば数十メートル離れていても正確な位置特定と高速通信が可能とされる。バスであれば、乗客がスマートフォンを鞄に入れたまま乗降するだけで運賃が自動的に精算される仕組みが想定されている。りそなは、乗降時の顧客対応が減ることで運転手が運転業務に集中でき、安全性や定時運行の向上にもつながると説明している。
決済速度という点では、Suica(FeliCa)はもともと非接触リーダーとの認識距離が最大85mmとされ、海外規格のType-A/B(最大40mm)より広く、タッチ動作の負担を減らす工夫が凝らされてきた。UWB方式はこの発想をさらに進め、「かざす」動作そのものを不要にする狙いがあると言える。高齢者が多い地方部において、「カバンから財布やスマホを取り出す」という所作自体が負担になっているケースは少なくなく、持っているだけで完結する仕組みは、デジタル機器の操作に不慣れな層にも配慮したユニバーサルデザインとしての側面を持つ。
なぜ「JCB」と「りそな」なのか
この提携の背景には、両社それぞれの事業戦略が透けて見える。
日本の交通系タッチ決済市場では、国際ブランドの中でもVisaが先行して普及を進めてきた経緯がある。日本発の国際ブランドであるJCBにとって、次のフェーズとされる「手ぶら決済」を主導する立場を早期に確立することは、決済インフラの主導権を巡る競争において重要な意味を持つ。JCBは2024年1月から「タッチしないタッチ決済」の検討を進め、同年5月にはUWBを活用した「近づいてチェック」プロジェクトを始動するなど、店舗決済分野でも段階的に布石を打ってきた。移動という日常的な接点でカードが使われれば、そのカードが利用者にとっての「メインカード」として日々の買い物にも波及する効果が期待できる。
一方のりそなHDは、関西みらい銀行やみなと銀行などを傘下に持ち、地方都市や中小企業、自治体との関係が深い金融グループだ。地方交通が交通系ICカードを維持できなくなりつつある今、その受け皿として決済・金融データの基盤を提供できれば、地域の生活インフラとしての存在感を強められる。りそな自身も、地域の商店街や自治体を巻き込んだ地域経済圏のデジタル化に、金融データや顧客基盤、アプリのUI/UX知見を活かせる立場にある。実際、りそなとJCBはステーブルコイン決済の実証実験(2026年2〜3月)でも協業するなど、次世代決済領域での連携を広げている。
金融アナリストの川﨑一幸氏は次のように分析する。
「地方の交通事業者にとって、機器更新のたびに数億円単位の投資判断を迫られる状況は限界に近づいています。UWBによる手ぶら決済が実用段階に達すれば、専用車載器への大規模投資を避けつつ、利用者の利便性を落とさない選択肢が広がる可能性があります。ただし現段階はあくまで実証実験の段階であり、通信の安定性や不正利用対策、料金の誤課金防止など、実用化に向けて検証すべき課題は多く残っています」
「速度」から「軽さ」へ、交通決済の重心が動く
かつての日本の交通DXは、首都圏の過酷なラッシュ時間帯をさばくための「処理速度」を追求する形で発展してきた。Suicaが体現してきたのは、まさにその極致だったと言える。
しかし人口減少が進む地方において求められているのは、維持費の軽さと、誰にとっても使いやすいアクセスの容易さだ。クレジットカードのタッチ決済がその第一段階だとすれば、JCBとりそなが取り組む手ぶら決済は、専用車載器への投資自体を最小限に抑えつつ、利用者の負担も減らす次の選択肢になり得る。
ただし、これはあくまで今秋から始まる実証実験の段階であり、2028年度以降とされる実用化までにはまだ時間がある。通信の混雑時の精度、なりすまし対策、料金誤徴収時の対応など、実用化に向けて検証すべき論点は多い。過度な期待は禁物だが、地方交通が直面する「更新費用の壁」に対し、選択肢の一つが増えたことは確かだ。今後の実証実験の結果が、地方交通インフラの将来像を占う一つの指標になるだろう。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=川﨑一幸/金融アナリスト)











