朝日誤報騒動の背後に読者不在の社内派閥抗争 「吉田調書」続報を社会部系幹部が潰す
だから「命令違反」があったのか否か、東電社員たちが逃げたのかどうか、がんばった東電社員たちを貶めるものなかどうかは、本質的な問題ではない。自分の命を懸けて働いた「美しい日本人たち」がいたかどうかも同様だ。「吉田調書」や他の資料・証言などと照らし合わせて、あの時、政府や東電はどのような判断を下し、何が起こっていたのかあぶり出し、問題提起していくことに意義がある。取材班は続報で、そのことを追及していくはずだったのに、内部の権力闘争に起因すると見られる嫌がらせによって、続報の出稿はストップされたという。
「命令違反」に関して行き過ぎた表現があったとしても、その報道姿勢は評価されて然るべきであり、国民の知る権利に応えようとする取材活動だったのではないか。誤解を恐れずに言えば、今回の対応を見ていると、「立小便で死刑宣告している」に等しい。
筆者は、読者ら外部から誤報ではないかと指摘されたことを隠蔽して逃げろと言っているわけではない。行き過ぎた表現があるとすれば、そこをお詫びして、本来の報道の意義や姿勢について理解してもらうのが筋ではないか。その対応をしないことの合理的な理由がない。それをしないのは、木村社長の責任逃れや権力闘争が背景にあるからだ。
木村社長は、「命令違反」はなかったと強調して謝罪することで、実は自分の判断ミス、具体的には従軍慰安婦検証報道後に謝罪しなかったことと、池上彰氏のコラム掲載を見合わせて批判を浴びたことの責任の大きさを相対的に下げて社長の座にしがみつこうとしているのではないか。そこに、社会部系幹部による特別報道部潰しの戦略がぴったり重なる。さらに言えば、従軍慰安婦報道の責任は社会部にあるので、社会部出身の上級幹部がその責任を目立たないようにするために、姑息にも「吉田調書」の謝罪を前面に打ち出すように画策した模様だ。
権力闘争に明け暮れ、最後はトカゲのしっぽ切りで幕引きを図ろうとする朝日は、このままでは本当にコア読者層からも見放されるであろう。筆者はかつて朝日記者として約13年間勤務し、同社が嫌になって10年前にフリージャーナリストに転じたが、「嫌になった」対象は私の周辺にいた幹部連中である。フリーでも活動していける力が付いたのは、朝日で諸先輩方に鍛えられたからであり、「元朝日記者」というだけで一定の信用があるからだと今でも思っている。今では「天然記念物」にも近い存在になったようだが、社内には志の高い記者たちもまだ残っている。今の朝日の経営層の判断は、そうした志までも潰そうとしているように思えてならない。
朝日は今、権力闘争という「内なる敵」に敗れて沈没寸前だ。今の苦境は、産経新聞や読売新聞、週刊誌などの批判によって生じたものでは決してない。言ってしまえば、自滅だ。ただ、朝日という会社には醜い点も多いが、良い点も少なからずある。過去に13年間お世話になった経験を踏まえて、朝日のことをこれから何回かに分けて語っていきたいと思う。
(文=井上久男/ジャーナリスト)