中村氏は受賞後の会見で日亜化学に対する好悪相半ばする感情を吐露した。感謝したい人物の筆頭として、中村氏が同社在籍中に青色LED研究への投資を決断した同社創業者、小川信雄氏(故人)の名前を挙げ、「私が開発したいという提案を5秒で決断し、支援してくれた。私が知る最高のベンチャー投資家だ。小川社長に500万ドル必要だというと、彼はそれもOKだと言った」と語った。
その一方で、「研究の原動力はアンガー(怒り)だ」と日亜化学に対する憎しみを隠さなかった。発明特許を会社が独占し、中村氏へは発明の対価として「ボーナス程度」の2万円のしか支払われなかったず。中村氏は退職後も技術情報を日亜化学のライバル企業に流出させたとして同社から訴訟を起こされ、「さらに怒りを募らせた」といい、会見で中村氏は次のように語っている。
「日亜化学から企業秘密漏洩で訴えられ頭にきたので、日本で原告になって日亜化学を訴えた。裁判なんかやったらノーベル賞をもらえないと言われたが、やりたいようにやってきた。こうしてノーベル賞をもらってうれしい」
これに対して日亜化学は、「日本人がノーベル賞を受賞し、受賞理由が中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは日亜化学としても誇らしい」とコメントしており、同社の中村氏に対する複雑な心情が読み取れる。
中村氏の異能を買った日亜化学創業社長の決断
中村氏は徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了後、京セラへ就職が内定していたが、すでに結婚しており家族の養育の関係から、1979年、地元の日亜化学に入社し一貫して商品開発に携わった。中村氏は会議には出席せず電話にも出ず、社内では「変人」として知られていたが、赤色LEDの製品化などに成功。しかし、赤色LEDはすでに他の大手企業が製造していたため、売り上げにあまり貢献できず社内で「無駄飯食い」と批判された。
「会社の上司たちは、私を見るたびに、まだ辞めていないのか、と聞いてきた。私は怒りに震えた」(中村氏。受賞後の会見より)
入社から8年過ぎた1987年。怒りが頂点に達した。辞職覚悟で当時社長を務めていた前出の小川氏に直訴し、当時不可能といわれていた青色LEDの開発許可を求めた。中村氏の「異能・異才」を日亜化学の中で唯一評価していた小川氏は、「オーケー。やっていい」と即答。「開発費はいくらかかる?」との質問に「500万ドルが必要だ」と答える中村氏に対し、「ええわ、やれ」と一言で返答したという。当時、為替レートは急激な円高が進んでおり、500万ドルは8億円に相当する。中小企業の日亜化学には大変な金額だ。これにより500万ドルの研究費支出と米国留学が認められ、青色LEDが陽の目を見ることになる。
88年9月までの1年間、中村氏は青色LEDの技術を学ぶため米フロリダ大学工学部に留学した。留学中に米国では博士号が一番重要視されると知り、「自分のような大組織の支援のない人間には博士号の取得しかない」と決意し、帰国後、働きながら徳島大学大学院で指導を受け、94年に工学博士の学位を取得した。
89年3月、中村氏の最大の後ろ盾である小川氏が不治の病に倒れ、娘婿の英治氏が2代目社長に就任した。英治氏は製品化の見込みがないと判断し、青色LEDの開発の中止を命じた。中村氏は青色LEDの開発がダメなら会社を辞めてもよいと腹をくくって会社の命令を無視し、上司から届けられた開発計画変更書をゴミ箱に捨て続けた。
そして中村氏は周囲の反対に背を向けるかたちで開発を進め、92年3月、青色LEDの製造装置に関する技術を確立し、日亜化学が特許出願した。「404特許」と呼ばれるもので、その後この特許をめぐって中村氏と同社が対立することになる。日亜化学は93年11月、今世紀中は困難といわれていた青色LEDの製品化に成功したが、中村氏が手にした会社からの報奨金はわずか2万円だった。
訴訟合戦
中村氏は青色LEDの開発で国際的な技術賞を多数受賞するが、日亜化学は命令を無視した中村氏に社内で居場所を与えず、99年12月、中村氏は同社を退社。そして、「君はノーベル賞をとるべきだ」と評価する米カリフォルニア大学サンタバーバラ校総長の招きで同校工学部教授に就任した。
米国に移住した中村氏に日亜化学は追い打ちをかけた。特許技術をライバル企業に流出させたとして、企業秘密漏洩の疑いで中村氏を提訴。発明の対価がわずか2万円と聞いた米国の研究者仲間から「スレイヴ(奴隷)」と呼ばれていた中村氏は、同社に反撃を開始する。404特許の特許権帰属確認と200億円の譲渡対価請求を求めて同社を提訴したのだ。
04年1月、東京地裁は発明の対価を604億円と算定し、日亜化学に対して200億円を中村氏に支払うよう命じた。日亜化学は直ちに控訴。東京高裁は和解を勧告し、05年1月、日亜化学が遅延損害金を含めて8億4000万円を中村氏に支払うことで和解が成立した。中村氏は帰国の可能性について「それはない。仕事はこちら(米国)でと決めている。裁判も決め手になった。大勝したら日本に残ろうと思っていたが、そうならなかったので米国に移った。この選択は間違っていなかった」と語っている。
この裁判は、実は日亜化学の作戦勝ちだったといわれている。同社は裁判で404特許は無価値だとする法廷戦術を採った。404特許に200億円の特許価値がないとすることで、職務発明の対価を減額させる作戦だ。この作戦が成功し、一審の東京地裁は日亜化学に200億円を支払うように命じたが、二審の東京高裁での和解金額はこれを大きく下回った。「和解額にはまったく納得していないが、弁護士の助言に従って勧告を受け入れることにした。職務発明の譲渡対価問題のバトンを後続のランナーに引き継ぎ、本来の研究開発の世界に戻る」(中村氏)。中村氏は最高裁まで争い200億円を勝ち取るつもりでいたが、升永英俊弁護士の説得に従い矛を収めた。当時会見で中村氏は「日本の司法は腐っている」と感情を露わにし日本を離れ、米国の市民権を得た。
一方の日亜化学は、「当社の主張をほぼ裁判所に理解していただけた。特に青色LED発明が一人ではなく、多くの人々の努力・工夫の賜物である事を理解していただけた点は、大きな成果と考える」とするコメントを発表。同社は訴訟終了後に無価値だと主張した特許権を中村氏に譲渡することなく放棄している。
そして今回、日亜化学が「無価値」だと主張した中村氏の発明が、ノーベル賞を受賞した。
(文=編集部)