創業者・松田聖子と、事業領域拡大させる娘・沙也加 巧妙な事業承継&成長戦略
しかし、喜一郎は、当初豊田自動織機製作所の常務取締役となるも、1929年に渡米。当時は米国で成長期にあった自動車産業に市場機会を見いだした。ちなみに20年代の米国ではT型フォードが爆発的にヒットし、自動車がすでに結構普及していた。しかし、現在の日本におけるユニクロと同じで、右を見ても左を見てもT型フォード。「もうちょっと格好良い、人とは違う自動車はないのか」と、米国消費者は考えていた。そこへGMの社長アルフレッド・スローンは、洒落たデザインの自動車を次から次へと投入。自動車が機能のみならずデザインでも購入されるようになった時代だった。
米国市場を視察した後の33年、喜一郎は豊田自動織機に自動車製作部門を設立。のちに、トヨタ自動車工業株式会社として独立した。そして今や、日本を代表する大会社になっている。戦後、高度経済成長期に日本の主要産業が軽工業から重化学工業にシフトしていったのに合わせて、喜一郎は父・佐吉の創業事業をテコに第2創業を成功させた。
このような第2創業の成功は、トヨタだけにはとどまらない。72年、福原有信は「調剤薬局」として、銀座に資生堂を創業した。その後、日本初の練り歯磨きを発売している。その息子、福原信三は米国コロンビア大学に留学し、米国の先進的なドラッグストアなどを目にした。米国のドラッグストアは現在の日本のドラッグストア同様、「ドラッグ」と名前がついているものの、薬だけを扱っているわけではなく化粧品も扱っている。その化粧品事業に市場機会を見いだした信三は、資生堂の創業事業である調剤薬局をテコに1900年前後に化粧品へ事業を拡大。その後は、現在の同社の主力事業である化粧品の第2創業を成功させた。
奇しくも1900年は、津田梅子、大山捨松などが津田塾大学の前身、女子英学塾を設立した年である。女性が社会に積極的に出ていく気運が高まった時期でもあり、化粧品事業は成長期に差し掛かった時期であった。
●成長市場を目指す方向性は正しい
筆者はアイドル事情に詳しくないので、神田さんがどのような市場機会を見つけているのかわからないのだが、『紅白』では流暢に英語を話していた。音楽市場で考えても日本だけではなく欧州、米国でも活躍できる機会があるだろう。