10月24日、大女優・八千草薫が88歳で他界した。1947(昭和22)年に宝塚歌劇団に入団、宝塚在団中から東宝映画などでも出演し、1957(昭和32)年に宝塚を退団後は広く映画、ドラマでも活躍。おっとりした“良妻賢母”の役柄が目立ったことから、役者仲間たちが発表した追悼コメントはいずれも、そのパブリックイメージ通りの人柄に触れていた。
八千草が穏やかで優しい人物であったことは確かなのだろう。だがその反面、女優という職業に対するプライドは人一倍高く、堅固な面もあったのだろうと考えられるエピソードも存在する。実は彼女は、共演した“あるアイドル”への反発から、高視聴率ドラマを途中降板したことがあるのだ……。
ドロドロ展開が魅力の『赤いシリーズ』で山口百恵と共演
そのアイドルとは、大物中の大物、1970年代のトップアイドル・山口百恵である。彼女が所属する大手芸能プロダクション「ホリプロ」は、1973年の彼女のデビュー当初から、歌手業と並行して女優業に重きを置くマネジメントをしていた。実際、1980年に彼女が引退するまで、途切れることなく映画、テレビドラマの仕事がそのスケジュールのなかに組み込まれていた。
そんな女優・山口百恵にとってのテレビにおける代表作に、全10作品が制作された人気シリーズ『赤いシリーズ』(TBS系)がある。タイトルに『赤い~』が付く以外には作品間に繋がりはないのだが、“主人公やヒロインが、ハードな試練や困難を周囲の人達に支えられながら克服していく”というストーリーは、シリーズに一貫していた。
シリーズ中、百恵が出演したのは『赤い迷路』(1974年~)、『赤い疑惑』(1975年~)、『赤い運命』(1976年)、『赤い衝撃』(1976年~)、『赤い激流』(1977年)、『赤い絆』(1977年~)、『赤い死線』(1980年)の7作品に及ぶ(『赤い激流』はゲスト出演)。
さて、ここで取り上げたいのは、シリーズ第2作の『赤い疑惑』である。多少横道に逸れるが、簡単にその設定を説明しよう。大学教授である父親(宇津井健)の職場を訪ねた少女(山口百恵)が、学内で起きた爆発事故に巻き込まれ、放射線療法に用いるコバルト60が放出する放射線に被曝。医大生の青年(三浦友和)に助けられなんとか命は取り留めるものの、被曝が原因で白血病を患ってしまう。一方で少女と青年とは互いに愛し合うようになるが、やがて、悲劇的な現実が明らかになっていく。2人は、母親の違う実の兄妹だったのだ……。このような大時代的な物語こそ、まさに『赤いシリーズ』の真骨頂といえよう。
全29話が制作され、最高視聴率最高30.9%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録したこの作品で、八千草薫は、宇津井健の配偶者、山口百恵の母親(実際は血縁関係はない)の役を演じていた。ところが彼女は、第6話を最後に突如出演しなくなる。視聴者を困惑させたこの唐突な降板劇は八千草側から申し出たもので、その理由は、山口百恵に対する不満が原因だといわれている。では、何が不満だったのだろうか……?
“百恵優先”に、八千草が憤慨?
当時、百恵はデビュー2年目の16歳。「青い果実」(1973年)、「ひと夏の経験」(1974年)など“青い性”を連想させる歌詞が売りのシングル曲をヒットさせ、すでにトップアイドルの仲間入りを果たしていた。
この時代、売れっ子アイドルは非常に多忙だった。歌番組の数が現在とは比較にならないほど多かった上に、バラエティ番組や情報番組にも必ずといっていいほど歌のコーナーがあった。テレビ局間を往復しながら、ラジオにも出演。自身のコンサートを行いつつ、デパートの屋上や遊園地などで歌う“営業”もこなしていた。3カ月に1度は新曲をリリースし、そのキャンペーン活動も行い、数多くあったアイドル雑誌・芸能雑誌などの取材を受けるのも当たり前……。百恵の場合はさらに学校にも通っており、その上で女優業も積極的に取り組んでいたのだから、どうしてもスケジュールに無理が生じるのは必然だろう。
『赤いシリーズ』の百恵出演作の撮影は、そうした彼女の過密スケジュールに左右され、深夜や早朝に行われることはしばしば。共演者は百恵の到着を待つこともあれば、逆に芝居の途中でタイムアップになり、百恵が撮影所を去ってしまうこともあったとされる。
また、代役の女性の後ろ姿を遠くから写し、それを百恵に見せかけるという手法も頻繁にとられた。共演者たちは、ヒロインに見立てた別人を相手にした演技を強いられたのだ。これが、八千草の女優としてのプライドを大きく傷つけたようだ。第7話から突然、八千草と同年代の女優・渡辺美佐子が同じ役を演じることとなったのである。
しかし途中降板に際し、八千草は16歳のトップアイドルを公然と批判することはなく、百恵もその時点では、そのことをにおわせるようなコメントを発することもなかった。
引退間近の自叙伝で百恵がまさかの反論?
“その時点では”としたのには理由がある。三浦友和との結婚を前提に1980年10月に引退した彼女は、ラストステージ直前に『蒼い時』(集英社)という自叙伝をリリースしている。
こうしたタレント本は、インタビューなどをもとに実際は第三者(ライターなど)が書くのが一般的だ。同書がそうだったか否かはともかくとして、その内容は、非嫡出子であるという自らの出生について、性体験についてなどを克明に記した非常にショッキングなものであり、大きな反響を呼ぶ。
総じて、芸能界やアイドル歌手という職業をクールに眺めた、達観した論調に貫かれている本なのだが、そのなかに、八千草薫のことを指していると思われる記述があるのだ。
あくまで「本人から直接話されていないので真偽は分からないが」と前置きし、作品名も明確にしてはいないのだが、自身の多忙なスケジュールでドラマの撮影に支障が出る事態に対して、「あるベテラン女優からクレームが来た」と明らかにしているのである。
そのうえで、「私は、申し訳ないと思う反面、仕方がないことだとも思っていた」「芸能界のシステムの中にいる以上、従わなければならないこともあるのではないだろうかと思った。ただ、そのシステムは、私が決めたことではなかった。私には非礼を詫びる機会も権利も持たされていなかった」と記している。現在であれば、「山口百恵の天狗発言に批判殺到!」「百恵、自己弁護本で引退直前に大顰蹙」などとネットニュースの格好のネタにでもなりそうな書き方である。
干されなかった八千草薫
その「あるベテラン女優」が八千草のことだと仮定して考えると……5年も経った後に、注目されること必至の自著のなかで、寝た子を起こすような記述をあえてしたということは、百恵にとって八千草の降板は、よほど心に引っかかりの残る出来事だったのだろう。
一方で『赤い疑惑』出演時の八千草のそうした行動は、“大手プロに所属するアイドルに弓を引いてでも女優としての矜持を守った”とポジティブにとらえることも、“単に無責任で身勝手な行動だ”とネガティブにとらえることもできよう。
ただでさえ百恵の過密スケジュールにてんやわんやのなか、メイン出演者の途中降板という降ってわいたような事態である。おそらく制作現場は大混乱に陥ったことだろう。
しかし、それでも八千草は芸能界で干されることがなかった。そしてその2年後には、同じTBS系において、ドラマ『岸辺のアルバム』に主演する。同作は結果として彼女の代表作のひとつとなり、後年、傑作ドラマとして語り継がれることとなるのである。
(文=編集部)