加茂田組と大物芸能人との交流、そして「裏執行部」と噂されたお好み焼き屋の謎
三代目山口組屈指の武闘派としてならした加茂田組と、その親分である加茂田重政氏。今でも語り草になっている伝説の俠客たちの姿を存分に収めた書籍『烈俠 山口組 史上最大の抗争と激動の半生』と、ビジュアルブック『烈俠外伝 秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』が好評を博している。
そこには、多くの人の関心の的である、山一抗争へ連なる加茂田親分の生き様のみなず、現在の暴力団とは明らかに異なる、社会や地域と一緒に歩んでいた「昭和のヤクザ」の姿がリアルに描かれていたのだ。
さらに加茂田組にまつわる逸話を紹介すべく、『烈俠外伝』でも貴重な話を展開してくれた元加茂田組系二次団体若頭補佐の沖中東心氏が、当サイトに特別手記を寄せてくれた。最終回となる今回は、ユーモラスな語り口で、加茂田組の交流について触れてもらった――。(前編、中編はこちら)
藤山寛美の洒落ごころ
『烈侠外伝』では、多くの芸能人との交流が描かれている。しかし、紙幅の関係ですべてに触れられたわけではなかった。そこで、私が実際に見聞きした芸能人との付き合いついて話を進めたい。
加茂田組と交流のあった芸能人に、喜劇役者の藤山寛美さんがいた。
あるとき、その寛美さんから加茂田の親分に、エメラルドが散りばめられた高級腕時計がプレゼントされたことがあった。それからすぐ、姐さんが身近な人たちと数人で寛美さんの舞台を観に行った。
その本番の舞台のセリフで、寛美さんが「こまったなぁ、これは大きな問題やなぁ」と喋った後、「こんな難しい問題は加茂田の親分に頼まなあかんわ」と続けた(笑)。今では考えられないことだろうが、昔はおおらかだったのだ。
そういえば、細川たかしさんが日本レコード大賞(1982年)を受賞した時、そのテレビを見ながら若頭の飯田組長がすぐに細川さんの家族へ「今テレビ見てるけどな、よかったな」とお祝いの電話を入れていたことがあった。可愛がってやったかいがあったわ、ともおっしゃっていた。
加茂田組には、あれだけ大きな組織だったにもかかわらず、表立った派閥がまったくなかった。
それは、加茂田重政という稀代の親分のカリスマ性はもちろんのこと、飯田若頭をはじめとした執行部の方々による絶妙な組織運営術があったからだと思っている。
最後になるが、私は加茂田親分の若衆ではない。私の親分は加茂田組配下の直系組長であった。私にとっての親分はこの先、その人しかいない。加茂田組や加茂田親分に対する思い入れは山よりも大きいが、私にとってのすべては私の直の親分である、ということを付け加えておく。
<余録>へんこつやの謎
加茂田組・本部事務所に並んだすぐ近所に「へんこつや」というお好み焼き屋があった。プレハブ小屋の店舗で、当時から老夫婦が経営している、なんの変哲もない店だった。しかし、これがうまいのである。
柔らかい生地がどろソースとよく合い、絶品なのだ。これまで食べたお好み焼きで、この店の右に出る店はない。それほどうまいのだ。
当番に入れば毎回行ったし、寄り合いの時は加茂田組関係者でいっぱいになっていた。いっぱいといっても、5~6人も入れば満員になる、猫の額ほどの小さな店だ。
ここの老夫婦は、加茂田組関係者の直参に対しては「◯◯のおやっさん」、枝の若衆には「あんちゃん」と呼ぶ。直参であれば、一人親方であっても「◯◯のおやっさん」と呼んでいた。
だが、面白いことに、この老夫婦には独自の基準があったらしい。新しく直参になった人に対しても「あんちゃん」と呼ぶことがあったのだ。直参に直ったのを知りながら、そう呼ぶのである。
つまり、認めていないのだ。
その「あんちゃん」と呼ばれていた直参は、加茂田組直参の重圧からか、すぐに居なくなった。逆に、ある枝の若衆に対して、ある日突然、「◯◯のおやっさん」と呼び始めたことがあった。すると、その若衆はその後、すぐに直参に上がった。
そういうことが何度かあって、それからある噂が立った。この老夫婦は、お好み焼き屋というのは仮の姿で、実は加茂田組の人事権を握る「隠れ執行部」ではないのか、と。また、「いや、親分の血縁だろう」「我々の会話を親分に報告しているらしい」といった風聞を耳にしたこともあった。
するとそれ以降、へんこつやに行く際、店に入る時には大きな声で挨拶する者が続出し、お好み焼きを食べ残す者はいなくなった。
加茂田組が解散した後、何度も食べに行ったが、変わらぬおいしさがありがたかった。
しかし、震災の後に訪ねた時は、もう店はなくなっていた。へんこつやの謎については、もちろん半分ジョークではある。しかし、本当にあの老夫婦が加茂田組裏執行部だったのか、今となってはもう知る術もない(笑)。
(文=沖中東心)