実際、本作のみならず三池監督が取り組んだ漫画原作映画の数々は、それこそカット割や構図まで漫画のコマに忠実であったり、自分なりに原作をリスペクトしながら展開させているものが多い。しかし、その割に『テラフォーマーズ』など原作ファンの怒りを買うものもまた多いのは、やはり彼の本質が映画作家であり、どんな原作も最終的に自分の色に染め上げてしまうからに他ならない。
今回の『ジョジョ』も、三池監督がこの原作を気に入って演出しているのは、スタンド使いたちの闇の要素満載のバトル描写などから容易に読み取れる。三池作品の特色は、映画の闇そのものをいかに各作品のダイナミズムに転じさせていくかにあり、また原作者の荒木自身、映画評論を行うほどの映画好きで、特にホラー映画などダークなファンタ映画に対する傾倒は並々ならないものがあると聞くが、そういった双方の闇に対する憧憬はほぼ同じベクトルの方向を向いているといってもいいだろう。その意味では『ジョジョ』を映画化するのにふさわしい適材ではあったかもしれない。
しかし、それでも三池監督独自のリズムやテンポ、どこかしら冷めた目線など、原作と相違する部分は絶対に出てくるし、原作をリスペクトすればするほどその違いは濃厚に見えてくる。
全体の構造も、今回は全3部作の第1部ということもあって、単体で愉しめないことはないものの、やはりまだ描き切れてないキャラがいたり、謎を謎のまま残さざるを得ないドラマ構成など、作品そのものとして正当に評価しづらい部分があるのも確かだ。また今回は若干テンポのもたつきも感じられたが、それはシナリオに起因しているのかもしれない。
ただ、今回はたとえば「スタンド」を含め、世界観の説明などをいざぎよく省いていることで、原作を知らないと意味がわからないのではないかと心配している原作ファンも多いようだが、逆に今回は第4部という途中経過の映画化ということもあり、むしろわからないところに興味を抱いたら、原作を読めと言わんばかりの挑戦的な姿勢も感じられ、それはそれで気持ちのいいものがあった。
そう、今回は『ジョジョ』ワールドのほんの一部を映画化したに過ぎないのだから、あれこれ不明な点があっても当然。しかし、そのハンデを逆利用し、原作そのものへの興味を抱かせるようにしむけているのが、本作の最大の美徳であるようにも思えてならない。
個人的に、仗助役の山崎賢人は健闘しているが、髪型のことを揶揄されてキれるところなどは、もっと激しくやってほしかったとか、語り部の康一(神木隆之介)が意外にもう高校生には見えないとか、一方で第3部の主人公でもあった丞太郎役の伊勢谷友介はちょっと老け気味ではあるけどイメージぴったりとか、小松菜々演じる由花子は続編でちゃんと恐るべき個性を発揮してくれるといいなあ……などなど、いろいろ思案しながら見ているうちに、なんだかんだで入場料金の元を取れるほどには楽しんでいる自分がいた。
とはいえ、かつてなら、こういうのは2本立てプログラムピクチュア作品として気さくに楽しむ類のものだったとは思うが、今のご時世そういうわけにもいかないし、やはり原作ファンの思い入れが高まれば高まるほど、良くも悪くも作品を冷静に評価させてくれないところもあるだろう。
「たかが映画じゃないか」とはアルフレッド・ヒッチコック監督の名言だが、三池監督も心根にこの言葉が据わっているように思う。しかし、原作ファンにとしては「たかが」ではすまされないはずだ。
原作ものを映画化することからもたらされるさまざまな確執とは、永遠に続く問題なのかもしれない。
ちなみに上映が終了して場内が明るくなった途端、前のほうの席に座っていたヒスパニック系の若い外国人女性ふたりが天を仰ぎながら“OH,MY GOD”と叫んでいた。『ジョジョ』は海外でも人気というのは本当だったんだなと、改めて実感。しかし、その叫びは一体何を表していたのだろう……?
(文=増當竜也)